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【コラム】日本はどのように強大国になったのか(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2022.04.08 15:43
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壬辰倭乱(文禄・慶長の役)当時、日本側の要求は明国に用事があるから道を少し貸してほしい(仮道)というものだった。この要求はよく作られた口実とみる。小さな島国が大陸を征服するという主張自体があきれるものであり、実際の欲望は朝鮮にあったと考えられる。

ところで他の人はともかく豊臣秀吉には明国征伐の考えが本当にあった。明国を追い出した後、日本の天皇が北京で天下を治めるようにし、関白である自身は寧波から天竺を狙うという構想だった。

なぜ寧波だったのか。今は副省級の主要都市だが、当時は一つの州級の地方都市にすぎなかった。

 
寧波は16世紀初めまで日本の朝貢船の寄港地であり、その後は倭寇の活動の中心地だったため、日本人にとって寧波は外部に向かう窓口のようなところだった。秀吉の夢は大陸の帝国奪取を越えて海洋帝国の建設にあったのだ。

◆秀吉の夢は「倭寇帝国」

中国西南方の海洋世界を日本人が天竺と考えたのは、1549年に日本で布教を始めたフランシスコ・ザビエル(1506-1552)がインドのゴアから来たからだ。ザビエルの通訳アンジロウがキリスト教の権威を高めるために仏教の本山「天竺」から来たことを強調した。

アンジロウも神を毘盧遮那仏を意味する日本語「大日」と表現することを勧め、ザビエルもこれを受け入れたが、2年後に廃止した。日本人が慣れた観念に依託するのが最初の接触には便利な点があるが、さらに深く入ればキリスト教の本質を見えなくするためだった。アンジロウは最初の日本人キリスト教徒だったが、「天竺」を強調して「大日」を標ぼうしたのをみると、頭の中は仏教で満たされているようだ。

イエズス会創立メンバーの一人、ザビエルはヨーロッパ人の新しい活動領域である東方世界での布教のため、1542年からインドで活動を始めた。1547年に彼を訪ねたアンジロウから日本の風俗や状況に関する話を聞き、日本での布教を決心した。日本人の品性がキリスト教に合うという判断だったと伝えられるが、交易と交通の状況も考慮したはずだ。

アンジロウがザビエルを訪ねた理由は何か。殺人罪で逃避した薩摩の下級武士アンジロウが中国の南海岸に行ったのは倭寇になるための標準コースとみられる。ところがザビエルの存在を知ると、2年間訪ね歩いてザビエルに会い、案内者になった。アンジロウはザビエルの宣教師業を海賊活動の新しい類型と考えたのではないだろうか。

◆ポルトガル船が定期的に往来

日本にポルトガル人が初めて現れて火縄銃を伝えたのは1543年だった。接触が始まってすぐにポルトガル船の日本寄港が増えた事実は、アンジロウの行跡からも分かる。1545年にアンジロウが鹿児島で乗ったポルトガル船はもともとの計画とは違う船で、その船長がザビエルをよく知る人物であり、ザビエルの話を聞くことになったという。

ポルトガル人の日本往来が頻繁になったのは交易の重要なカギをそこで見つけたからだ。それは銀だ。ポルトガル人は1510年代に南シナ海の海域に入り、中国交易を試みたが、中国に売る物資を探すのが難しかった。ところが日本ではその当時、多量の銀が産出されていて、日本と明国の間の朝貢貿易は1523年から中断していた。日本産の銀の中国搬入はいわゆる「後期倭寇」の中心事業となり、ここにポルトガル人の参加が増え、日本にも出入りすることになったのだ。

ザビエルが日本で滞在した1549-51年、ゴアと九州の間でポルトガル船が定期的に往来し始めた。1554年にポルトガルがマカオ基地を確保した後にはゴア-マカオ-長崎路線となった。この船で日本の銀が中国に入り、紙やシルクなどの中国の商品が日本に向かった。船はポルトガル船だが、欧州の商品の比率は少なく、収益の相当部分は宣教師業に使われた。

アンジロウが「海外布教の守護聖人」ザビエルを倭寇に代わる新しい類型の海賊の首領と考えていたとしてもおかしくはないようだ。アンジロウはサビエルが日本を離れてまもなく海賊として活動し、中国の海岸で死亡した。

【コラム】日本はどのように強大国になったのか(2)

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