戦争さえすれば「プーチン支持率」急上昇…今回のウクライナは違う理由とは(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2022.01.31 14:11
◆国内を越えて「西側と対抗する指導者」になったプーチン
プーチンは2008年、連続3選が憲法で禁止されていることから側近であるドミトリー・メドベージェフに大統領権力の座を譲って自身は首相であり実質的「上皇」として君臨した。偶然にもこの時、プーチンにとって2つ目の戦争が起きる。ロシア南部の国境を接しているジョージア(旧グルジア)が同年8月に独立しようとしていた親露志向の南オセチアとアブハジアに対する鎮圧を試みると、プーチンはジョージアを侵攻して5日後に降参させた。
南オセチア紛争開始日である8月8日は2008北京オリンピック(五輪)開幕式があった日で、当時ジョージ・W・ブッシュ米国大統領は五輪開幕式でロシア侵攻の事実を耳にした。この紛争はNATO(北大西洋条約機構)の東進政策に対するプーチンの武力示威デモでもあった。1990年ドイツ統一当時、西側はソビエト連邦共産党のミハイル・ゴルバチョフ書記長に「NATOの管轄領域は東側に進まない」と約束したが、これは守られなかった。ソ連が崩壊した後、1999年チェコ・ポーランド・ハンガリーを皮切りに、2004年ロシアと直接国境を接するバルト3国(ラトビア・エストニア・リトアニア)まで次々とNATOに加入した。