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「朝鮮王妃殺した」 殺害に加担した日本外交官が書いたとみられる書簡見つかる

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2021.11.17 08:08
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1895年10月8日、朝鮮の明成(ミョンソン)皇后〔1851~1895、1866~95高宗(コジョン)の王妃、1897年皇后追尊〕殺害に直接加担したとみられる日本の外交官が「自分たちが王妃を殺害した」と明らかにした126年前の書簡が見つかった。この書簡は当時の過程を詳細に記録し、明成皇后弑害事件〔閔妃(ミンピ)暗殺事件〕である乙未事変が国家次元で行われたものではないとしていたこれまでの日本の主張に反論できる有力な証拠になるものとみられる。

16日、朝日新聞は当時日本の朝鮮公使館領事官補だった堀口九万一(1865~1945)のものとみられる書簡8通を見つけたと報じた。堀口は東京帝国大学法科大学を終えて1894年に日本初の外交官試験に合格した外交官で、当時日本人で構成された殺害実行グループの一員だった。

 
◆日本外交官の一人称の視点で叙述「存外容易にして、却てあっけに取られ申候」

書簡の受取人は新潟県中通村(現在の長岡市)にいた故郷の親友、武石貞松だ。

見つかった書簡は1894年11月17日から事件後の1895年10月18日の間にそれぞれ作成された計8通だ。この中で殺害翌日の1895年10月9日に作成された6通目の書簡に現場の状況が詳細に記録されていた。

堀口はこの手紙で「進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸く奥御殿に達し、王妃を弑し申候(進入は私の担当任務だった。塀を越えて奥にある寝室に到達し、王妃を殺した)」と所感を書いた。奥御殿は邸宅後方にある寝所と女性の空間を示す。景福宮(キョンボックン)後苑にある乾清宮(コンチョングン)の王妃寝殿である坤寧閤(コンニョンハプ)を示したものとみられる。明成皇后は坤寧閤の楼閣である玉壷桜(オッコル)で殺害されたといわれている。当時、高宗は乾清宮の寝殿である長安堂に監禁されていたことが分かった。

該当の書簡は名古屋在住の切手・印紙研究者の日系米国人スティーブ長谷川さん(77)が古物商から入手した。毛筆で崩し書きされた字は『朝鮮王妃殺害と日本人』の著者である在日歴史学者の金文子(キム・ムンジャ)さんが判読した。朝日新聞は「手紙がもともと保管されていたとされる場所や記されていた内容、消印、封書の作りなどから、本人(堀口)の真筆とみられる」と伝えた。金さんは「事件の細部や家族についての記述などからも、本人の真筆とみて間違いない」と話した。また「現役の外交官が任地の王妃の殺害に直接関与したと告げる文面に、改めて生々しい驚きを覚えた」とし「いまだに不明な点が多い事件の細部を解き明かす鍵となる、価値の高い資料」と評価した。

日本近代史と韓日関係史が専門の奈良女子大学の中塚明・名誉教授は同紙に対して「日清戦争も日露戦争も、朝鮮を侵略する過程で起きた」とし「(当時)日本が朝鮮半島で何をしたのか。事件から120年余を経て、当事者の手による一次資料が出てきた意味は大きい」と話した。

ソウル大学の李泰鎮(イ・テジン)名誉教授は「犯罪現場の日本現職外交官が一人称の視点で自身の犯行事実を認めた書簡が見つかったのは乙未事変が日本の国家犯罪という明白な証拠」と評価した。李教授は「今まで日本は『明成皇后殺害事件は大院君(テウォングン)の意向に沿って日本人が助けたものであり、実行グループは浪士など民間人だった』と主張してきた」と話した。

乙未事変は陸軍中将出身の三浦梧楼公使(1847~1926)の指揮下で、日本の軍人・外交官などが景福宮を襲撃して明成皇后を殺害した事件だ。1876年に締結された不平等条約「江華島(カンファド)条約(日朝修好条規)」により、この事件に関係した日本人は日本に引き渡されて裁判を受け、三浦や堀口ら48人は証拠不十分などの理由で全員無罪を受けた。

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