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【盧泰愚元大統領死去】体の弱い少年からソウル五輪開催まで(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2021.10.26 17:56
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「私は一時代の責任を負ったが敵を作りはしなかったと考える。国政の責任を負う者として心の姿勢というか哲学が『全てを耐えよう。ちょっとのことなら許そう。待とう』という信念で一貫してきた」(盧泰愚肉声回顧録より)。

故人は軟性のリーダーだった。本人自らもそのように評価されることを望んだ。彼は大統領在任時期を回顧しながら「日照りの時はいつ雨が降るかと夜に寝付けず窓を何度も開けてみた」と話したりした。「私に付いてこい」というのがリーダーの典型のように見なされた時期、故人は時代の先を行っていたとの評価もある。

◇体は弱かったが合唱部活動に熱中した幼年期

26日に死去した盧泰愚(ノ・テウ)元大統領は大邱(テグ)・八公山(パルゴンサン)のふもとに生まれた。「電気もきていない奥深い山中で蓄音機があるのはわが家だけだった。父のひざに座り父が流す蓄音機の歌に合わせて歌った記憶が最も鮮明だ」という回顧のように彼は感受性が鋭敏な方だった。

強骨ではなかった。1945年3月に大邱公山小学校を卒業した後、慶北(キョンブク)中学(現慶北高校)への進学に失敗し大邱公立工業学校(現大邱工業高校)電気科に入学した。彼は「2年生の時にマラリアの合併症で腸チフスにかかり数カ月苦しんだ」と振り返った。3年生の時に慶北中学編入試験を受け合格した後、4年生の時に224人中102位、5年生の時には218人中で63位となった。盧元大統領は「体が弱かった点を考えれば悪くない方だった」と語った。弱い体のために運動はまともにできなかった。むしろ音楽の素質があり合唱部の活動でさまざまな大会で入賞した。

◇医師になろうとしていた彼を軍人にした韓国戦争

盧元大統領は中学5年生(現在の高校2年生)になり大学進学を準備した。翌年には本格的に医大進学を準備することを決めたが、1950年に韓国戦争(朝鮮戦争)が勃発した。彼の回顧。「学徒兵として従軍するか招集されるか2つの道しかなかった」。故人は憲兵学徒兵として軍に身を置いた。

38度線を挟んで国連軍と中共軍が一進一退を繰り返していた1951年初秋、もうひとつの募集公告は彼の人生の転換点になった。休校中である陸軍士官学校が10月31日を期して4年制正規課程として鎮海(チンヘ)で再開校するという「国本一般命令163号」だった。200人の募集に1400人が応募した。競争率は7倍だ。盧元大統領は10位に入る優秀な成績で合格した。

こうして入った陸軍士官学校で彼は大邱・慶尚北道出身の生徒らと厚い関係を築いた。「ハナ会」の始まりだった。「全斗煥(チョン・ドゥファン)、金復東(キム・ボクトン)などの友人のほか孫永吉(ソン・ヨンギル)、崔性沢(チェ・ソンテク)など慶尚南道の友人まで加勢し休暇の時ごとに一緒に過ごしたりし他の生徒の羨望を買ったりもした。無駄なことだと快く思わない人もいた」と彼は記憶した。

◇12・12…前方師団兵力を率いる

盧泰愚元大統領は朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領が死亡した10・26事件当日、当時の全斗煥国軍保安司令官の電話を受けた。「大統領に有事が起きた」という内容だった。クーデターの火種となった人物は鄭昇和(チョン・スンファ)陸軍参謀総長(戒厳司令官)だった。盧元大統領と全斗煥合同捜査本部長は「鄭総長は金載圭(キム・ジェギュ)の招待を受けて現場近くにいた。道義的責任を免れることはできない」とし、「職から退くのが総長が取るべき姿勢だ」と意気投合した。

彼らが再会したのは1979年12月12日だった。青瓦台(チョンワデ、大統領府)を警護する30警備団長室には2人のほかにも多くのハナ会の将軍が集まった。鄭総長連行過程に不満を持つ首都圏地域の将軍を説得するためだった。盧元大統領は「連行という表現をそこで初めて聞いた」と回顧した。だが総長公館で銃撃戦が起きるなど事態が急変したその瞬間、彼はこの日夜のクーデター成功に決定的な寄与をした。自身が指揮した第9歩兵師団から2個歩兵連隊を動員しソウル入りさせた。

◇「第5共和国」ナンバー2としての生活

盧元大統領は第5共和国誕生過程からナンバー2だった。回顧録によると、1980年8月に当時の全斗煥保安司令官が「折り入って相談したいことがあるので時間があれば夕方に会おう」と彼に電話をかけた。会って聞いた話は「崔圭夏(チェ・ギュハ)大統領が国政を任せたいという要旨の話をした」ということだった。盧元大統領は「ひとまず謝絶した」という全斗煥元大統領に「軍元老の意見を聞いて決めよう」と提案し、全元大統領もその意見に従ったという。結局数日後に崔大統領は下野し全斗煥大統領が就任した。盧元大統領は当時権力が集中した国軍保安司の後任司令官に栄転した。

盧元大統領が「ナンバー2」の役をしたのは彼が全元大統領の隙間を埋める方向で行動したためとの評価がある。「軍では当時全大統領に対し快く思わない同期生も少なくなかった。だがすでに碇を上げた歴史に代案はありえなかった。私がすべきことは彼らの心をまとめることだった。人和を信条に生きてきた私は同期や後輩の気持ちをなだめ、みんながひとつの船に乗るようにした。全大統領が執権している間にただ1人の裏切り者も出なかった」(回顧録より)。

盧元大統領は81年夏まで保安司令官を務め、その後は行政部に席を移した。盧元大統領はしかし本能的に「ナンバー2」と呼ばれるのを嫌った。彼は回顧録で「全大統領は何度も『世の中の人たちはあなたをナンバー2とみている』と語ったが、その言葉は良く受け止められなかった。トップの座を夢見ているのではないのか自問してみて『違う』と思った」と話した。 【盧泰愚元大統領死去】体の弱い少年からソウル五輪開催まで(2)

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