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【コラム】<囲碁>チョ薫鉉vs劉昌赫の決勝戦…日本が変わった瞬間

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2021.07.21 09:22
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私が若い頃、日本は本当にかっこよく、うらやましい国だった。大学生時代に囲碁の対局をしに日本に行くと、アマチュアにもかかわらずほとんど勅使のような接待を受けた。実際、私たちの頭の中は「反日」で武装していたが、それを出す機会はなかった。豊かになった日本はおおらかな姿勢で貧しい隣国の反日感情をなだめるのに最善をつくす姿だった。東京はきれいで、立派で、ときめきがあった。日本の棋院に入ると、言葉だけで聞いていた数多くの伝説的な棋士と長い歴史がかもしだす力に圧倒された。

そこで聞いた囲碁の歴史も興味深かった。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の主役の豊臣秀吉は日本で初めて囲碁棋士に俸禄を与えた人物だ。それを聞いた時、頭の中は複雑だった。秀吉の後に続いた徳川幕府は江戸という都市を新しく建設し、そこに碁所を置いて囲碁を奨励した。戦乱が終わって平和が訪れたため、侍の勝負欲を囲碁でなだめようという政策だった。名人(九段)だけが務めることができる碁所は全国の囲碁棋士の昇級と俸禄を決め、御城碁を組織して将軍の囲碁を指導した。この時から囲碁家門は名人になるために激しく競争し、囲碁の技術も日々発展した。韓国や中国とは違い、日本での囲碁は個人の成敗と一族の興亡をかけた激しい勝負になった。その集中度は天と地の差だった。私は碁盤の前で血を吐いて死んだ吐血局の話に感嘆し、日本と日本囲碁を認めないわけにはいかなかった。制度や政策が文化を導くことも実感した。幕府300年の底力はそのまま日本の棋院につながった。

 
韓国の暮らしが少し良くなり、囲碁も少し勝ち始めながら、雰囲気は徐々に変わった。1993年に日本が主催する富士通杯に韓国のチョ薫鉉(チョ・フンヒョン)九段と劉昌赫(ユ・チャンヒョク)九段が決勝に進出した。第1回から第5回まで日本が優勝した富士通杯だが、第6回大会で異変が起きた。日本囲碁の心臓の東京で韓国の棋士同士が決勝を行うことになったのだ。金城鉄壁のようだった日本囲碁の権威が日本の囲碁ファンの目の前で崩れる事件だったが、特に動揺は感知されなかった。驚くことに日本棋院の解説場はスーツを着た囲碁ファンで満員だった(似た状況がソウルであった時、韓国の解説場はひっそりとしていたのを覚えている)。日本はこの時期までも大国の姿を見せていた。

ところが翌年、東京での富士通杯の決勝にチョ薫鉉九段と劉昌赫九段がまた進出した。日本棋院はこの時、やや冷めた雰囲気だった。その代わり西側の大阪から朝鮮総連の人たちが電話をかけてきた。とても痛快でじっとしていられない、今からそこに行くから夕食を一緒にしよう。私たちは南北の話は一言もせず、囲碁の話ばかりしながら夜を過ごした。それ以降、日本の囲碁はずっと下り坂をたどった。徳川幕府が磨いた基盤もその流れを防げなかった。

韓国人ならたいていそうだが、私にも良い日本と憎い日本がある。良い日本に関する話はここまでだ。私の心の中の変曲点は93年と94年の富士通杯の決勝戦だった。その後、日本は謝罪と妄言を繰り返し、独島(ドクト、日本名・竹島)や旭日旗など残念なことが続いた。大学生の頃の見た日本は韓国に対して花びら1枚も落とさないような慎重な姿だったが、今はつぶれてもよいという態度で嫌韓騒ぎをする。今回問題になった日本公使の発言は自己破壊の雰囲気までが漂う。日本のどこが病んでいるのか。なぜあのようにいらだって憤るのか。

それでも私は日本の良い記憶の方に期待をかける。漠然としているが、礼儀正しく慎重に行動する平凡な日本の人たちとのどかな田舎の風景がまだ向こうに残っている。コロナが終われば、地震発生でまともに訪問できなかった北海道と雪に覆われた新潟にまた行ってみたい。囲碁も以前のように強くなることを心より希望する。

朴治文(パク・チムン)/囲碁コラムニスト

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    2021.07.21 09:22
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    イラスト=キム・フェリョン
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