【コラム】東京オリンピック残酷史
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2021.05.24 11:41
1964年の第18回東京夏季オリンピック(五輪)は「夏季」という言葉が色あせた秋の真ん中(10月10日)に開幕した。聖火リレーの最終ランナーは坂井義則という19歳の青年だった。当時、早稲田大1年の陸上中長距離選手だった。外国メディアは彼を「原爆少年(atomic boy)」と呼んだ。坂井は原爆が投下された当日の1945年8月6日に広島県で生まれた。日本の意図は明白だった。第2次世界大戦の敗戦国が惨禍を踏んで五輪開催国に華麗に復活したことを見せることだった。逆説的なのは、日本が夢見ていた五輪開催国の姿は「再起した敗戦国」でなかったことだ。
もともと日本は五輪を通じて帝国の威容を誇ろうとした。アジアと太平洋の広大な地域を号令する、いわゆる「大日本帝国」のことだ。それで招致したのが1940年の第12回東京夏季五輪だった。この大会は地球上のどこでも開催されなかった。1937年に日本が日中戦争を起こすと、西欧世界が反発した。国際世論に押された日本は開催権を返納した。開催権はフィンランド・ヘルシンキに移った。しかし1939年に第2次世界大戦が始まり、五輪は結局、開催されなかった。第1次世界大戦で中止になった1916年の第6回夏季五輪に続いて2回目の中止だ。1916年の五輪を招致したのはドイツ(ベルリン)だった。戦争で中止になった2回の五輪の元招致国はともに戦犯国だった。