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【コラム】「生き残った者が勝者」朝鮮と日本の間の絶妙な実利外交(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2021.03.26 11:10
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1598年に壬辰倭乱が終わると対馬は再び動き始めた。宗義智は1599年に梯七太夫、1600年柚谷弥介を相次いで朝鮮に送った。侵略を謝罪して関係を再開してほしいと懇請するためだった。朝鮮からは回答がなく、使者は帰還できなかった。

宗義智は諦めず、倭乱の時に捕まえてきた朝鮮人160人を送還した。誠意を表したものだった。また「新たに執権した徳川家康は秀吉の侵略に加担しなかった」とし、朝鮮が通信使を派遣して徳川政権と講和を結ぶことを求めた。あわせて朝鮮が拒否し続ければ再侵される可能性もあると脅迫した。

 
長期間の戦争で国力が枯渇したうえに明軍も撤収した状況で朝鮮は慌てるほかなかった。朝鮮側は「明カード」を再び切った。「戦争以降、明の許可なく日本とむやみに接触できない」と言い逃れた。また、遼東に連絡して明軍の将軍を釜山まで呼び入れた。明軍の威勢を借りて再侵の脅威に対抗しようとする「狐仮虎威」戦術だった。1605年釜山に来た明軍の将軍劉興漢は対馬の使者の前で訓示を打つ。「お前たちが朝鮮を再び侵略することに備えて明軍数万人が平安道(ピョンアンド)に待機中だから退け」という内容だった。対馬の使者は劉興漢の怒号に「はい」といいながら服従するふりをした。

◆朝鮮津々浦々をめぐり膨大な情報収集

だが、状況はすぐ反転する。対馬島の使者は釜山の武官、李景湖に「われわれは先日平安道(ピョンアンド)でこれを切って持ってきた」と言って鉄山地域の里程標の一部を見せる。彼らは明軍が残っているかを確認するために平安道まで朝鮮全域を隈なく歩き回ったのだ。朝鮮事情をすでに鋭く知っている彼らに欺瞞的な狐仮虎威戦術が通じるわけがなかった。

対馬島の執拗な工作に押された朝鮮は講和の条件として2つのことを突きつけた。徳川政権が先に講和を要請する国書を送り、壬辰倭乱の時に宣靖陵を暴いた犯人(犯陵賊)を捉えてよこせと要求した。中世時代には戦争後、先に国書を送るのは降参を意味した。当然、徳川政権が受け入れるはずがなかった。

だが心臓に毛が生えている対馬は2つの条件をすべてクリアする。家康の国書を偽造して対馬の死刑囚2人を犯陵賊に見せかけて朝鮮に送った。条件が揃ったので、1607年朝鮮は回答兼刷還使を派遣して日本と国交を再開した。1609年対馬との貿易も公式に再開する。対馬が再び命綱を握った瞬間だった。

宋氏は痩せて貧しい辺境の地で生き残るために朝鮮と日本を行き来して狡猾ながらも戦略的に行動した。このため、日本のある歴史家は早くから宋氏について「8つの顔を持つ存在」と評価したことがある。壬辰倭乱を前後した時代、対馬が見せた外交術は米国と中国の間で老獪なほど戦略的に行動しなければ生き残れない今日の韓国にも示唆するところが少なくない。

ハン・ミョンギ/明知(ミョンジ)大学史学科教授

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    2021.03.26 11:10
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