<Mr.ミリタリー>北朝鮮軍のわき腹刺す韓国軽空母…挑発抑制と同盟強化の手段(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2021.02.26 13:41
第2次大戦の真っ只中だった1941年3月27~29日、ギリシャ西南の地中海マタパン岬で海戦が起きた。地中海の制海権をめぐる英国とイタリアの一戦だった。英国は航空母艦1隻や戦艦3隻など28隻が、イタリアは戦艦1隻と重巡洋艦6隻など26隻が出て対峙した。初期艦砲戦ではイタリアが優勢だった。ところが英国空母フォーミダブルが加わり形勢が逆転した。フォーミダブルから発進した艦載機が投下した魚雷がイタリア巡洋艦に命中したからだ。続いてクレタ島から発進した英国戦闘機までが結集し、イタリア艦隊に無差別打撃を加えた。イタリア空軍基地は遠く676キロのところにあり、役に立たなかった。イタリア艦隊は惨敗した。イタリア戦艦は大きく破損し、巡洋艦3隻と駆逐艦2隻が沈没した。2300人が戦死して1015人が捕虜となった。反面、英国は戦死者3人に軽巡洋艦4隻の軽微破損にとどまった。
当時、イタリアが近海で大敗を喫したのは統治者ムッソリーニの誤判断のせいだった。ムッソリーニは「地中海をムッソリーニ帝国の海にする」と豪語し、海軍力を大きくした。しかし彼は「イタリア半島が地中海中央に位置した不沈航母(沈まない航空母艦)であるため空母は必要ない」と言った。「海戦で、空軍機で英国艦隊に勝利することができる」というムッソリーニの豪語は惨憺たるものに終わった。マタパン岬沖海戦以降、イタリアは地中海制海権を英国に奪われた。ムッソリーニは一歩遅れて空母3隻の建造に着手したものの、長い時間がかかり機を逸した。