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【コラム】文政権のでたらめ錬金術(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2021.01.21 14:36
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時ならぬ主人論争が騒がしい。大そうに「国家の主は誰か」というものだが、騒がしい手車ほど中身がない。物を満たすこともできない手車は真っすぐに立つこともできず傾く。

今回の騒ぎは脱原発政策に対する監査院の公益監査着手で始まった。監査院が文在寅(ムン・ジェイン)政権が推進した脱原発政策樹立過程に手続き的な違法性があるかどうか監査を始めると、与党が崔在亨(チェ・ジェヒョン)監査院長に向けて集中砲火を始めた。

 
ところがその言葉に驚く。任鍾ソク(イム・ジョンソク)元大統領秘書室長はフェイスブックにこうコメントした。「家を守れと言えば居間を占拠しようとする。主人意識を持って仕事をしろと言えば主人の振る舞いをする」。

監査院は「国家の歳入・歳出の決算、国家及び法律が定めた団体の会計検査と行政機関及び公務員の職務に関する監察(憲法第97条)」を目的とする憲法機関だ。行政機関と公務員の職務を監査しないというのは監査院が憲法的な役割を放棄することだ。

しかし任氏の意識には、こうした監査院をただ家を守る犬レベルと考える認識がある。それも飼い主に無条件に服従する忠犬だ。家のものを持ち出して売る内部の泥棒には噛みついてはならず、外から入る見知らぬ人だけに激しく吠えるべきということだ。

これは明らかに違憲的な発想だ。監査院が家を守るウォッチドッグ(watchdog)だとしても、憲法が規定する監査院の任務は明確に内部の泥棒を捕まえることだからだ。外部侵入者から守るのは外交部と国防部、そして軍がすることだ。明らかに監査院、監査院長が自らの役割をしているが、任氏の目にはそれが「逸脱」「政治」として映るのだ。

◆犬が飼い主に噛みつく姿?

実際、そのような見方をするのは任氏が初めてではない。チョ・グク元法務長官が自身と家族に対する検察の捜査が行われていた当時、このように語った。「国民は検察改革を要求しながらこの国の主が誰であるか問うていて、選出されなかった権力に対する牽制を要求している」。

共に民主党最高委員候補だった李元旭(イ・ウォンウク)議員も昨年、「任命された権力が選出された権力に勝とうとする。犬が飼い主に噛みつく姿だ」と叫んだ。同じ党の金斗官(キム・ドゥグァン)議員も、裁判所が尹錫悦(ユン・ソクヨル)検察総長の復帰を判決すると、このような怒りのコメントをフェイスブックに残した。「国民が選出した大統領の権力を停止させた司法クーデターと変わらない。動員可能なあらゆる憲法的手段を総動員しなければいけない」。

金斗官氏は「尹総長弾劾」という自身の主張を周囲が憂慮すると、「国民が選出した大統領を守ることが民主主義を守ることだ」と語った。

彼らが与党全体を代弁するとはいえない。しかし概して与党は選出された権力があたかも誰も触れられない聖域であるかのように考えているようだ。すなわち大統領が国の主だと考えているのだ。少なくともそのような思考を否認しない。

とはいえ、彼らは国民主権を否定しているのではない。その代わりそれを巧妙に利用している。よく知られているように国民主権とは国家の最終意思決定権が国民にあるということだ。憲法第1条第2節「大韓民国の主権は国民にあり、全ての権力は国民から出てくる」という条項がその表現だ。

国家の主が国民ということだが、考えてみると「国民」という言葉が虚像に近い。あたかも大企業の「少額株主」のようだ。すべての人が所有権を持ったというのは、誰も所有権を持つことができなかったというのと変わらない。このため、いわゆる選出権力という一握りの群れが上辺だけにすぎない「国民の名前」で絶対的な権力を振りかざすことができるのだ。

◆王朝的な民本思想の限界

民主化運動をしたという事実を勲章のように付けて歩く群れがそのような行動を繰り返しているのが見苦しい。その点ではむしろ維新憲法が率直だ。

「大韓民国の主権は国民にあり、国民はその代表者や国民投票により主権を行使する」(維新憲法第1条第2項)。

簡単に言えば、国民が主になる時は国民投票をする際のたった一度だけということだ。残りは選出権力がすべて処理するから無条件に従えということだ。そのような時代があったが、それが現政権の態度・姿と完全に重なるのがアイロニーだ。

国民主権の実現は国民の自由と権利が保障される場合に限り可能であり、国民主権の行使は政治的基本権を具現することによって成し遂げられ、政治的基本権は表現の自由から出発する。ところが現在の選出権力は5・18民主化運動に対する一切の別の解釈を禁止し、北朝鮮人権に対しても政府の判断以外の見解を許容しない。「私が、私たちがこう決めたのに反対するとはどういうことだ」という論理だ。

現政権が国民主権を否定しないのなら、国民は選出権力の過ちを事後に懲らしめることができる。崔章集(チェ・ジャンジブ)高麗大名誉教授がおもしろいエピソードを紹介している。第1次世界大戦当時、ドイツ軍共同総司令官であり軍事独裁者エリッヒ・ルーデンドルフとマックス・ウェーバーの論争だ。

ウェーバーは言う。「人民は彼らが信頼する一人の指導者を選出する。そして選出された人がこう話す。『あなたたちは黙って服従しなさい。人民と政党が指導者に反対することは許されない』と」。これに対しルーデンドルフが答える。「そのような民主主義ならば非常に魅力的だ」。するとウェーバーがこう話す。「その後に人民は審判することができる。もし指導者が過ちを犯せば、彼を絞首刑にしなければいけない」 (『使命としての政治』)。

極端な例だが、選出権力の権力行使が大きいほど事後制裁の強度も強まるのは当然のことだ。このように見ると、途方もない事後制裁を予防するために監査院と検察が存在するのだ。この政権で発足した高位公職者犯罪捜査処も同じだ。事後制裁が大きければ選出権力の被害も大きいが、国民の被害も大きくなるしかないのだ。

ところが、現政権は監査院と検察の予防作業を妨害している。すなわち国民主権主義の否定だ。その代わりこの政府は極めて儒教的な民本主義を土台にしているようだ。民本は『書経』に出てくる「民唯邦本」に由来する言葉だ。ただ民だけが国の根本という意味だ。天が見聞きすることが民が見聞きすること、すなわち民心が天心というのが民本主義の基本であり、孟子のような人は「天子の位は天が与えたもので民が与えたもの」としている。

しかし結局、民は政治的客体にすぎない。徳治や王道・為民などの言葉は結局、愚かな民を正しく導いて恩恵を施すという意味が強い。いかなる公論化過程もなく選出権力である大統領の一言で脱原発が決定されることががそれで可能になるのだ。

王朝時代の民本思想から抜け出せず、選出権力に対する批判を受け入れられない。国家の本当に主である国民は不幸になるしかない。このような状況をゲーテはでたらめな錬金術師に例えた。国家は金床、支配者は槌、国民は鉄の塊だ。槌でいくら叩いても鉄の塊は金にはならない。金にするという言葉を信じた国民だけが苦しむことになる。

【コラム】文政権のでたらめ錬金術(2)

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