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【コラム】アラブ-イスラエルの平和を仲裁した米国、韓半島終戦協定を引き出せるのか(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2020.10.14 11:12
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中東アラブ圏のアラブ首長国連邦(UAE)とバーレーンが米国の仲裁でイスラエルと平和協定を締結し、長期にわたり敵対関係だった両陣営の間に薫風が吹いている。韓半島(朝鮮半島)でも米国の仲裁で1953年の停戦協定を終戦協定や平和条約に変えることが可能だという主張がある。

アラブ圏とイスラエルは1948年のイスラエル独立戦争、56年のスエズ動乱、67年の六日戦争、73年のヨムキプール戦争(アラブ圏では十月戦争)など4度の中東戦争をした。宿敵だったイスラエルとの敵対関係を清算して最初に平和協定を締結した国はエジプトだった。79年の両国修交の主役であるエジプトのアンワル・サダト大統領(1918-81年、在任1970-81年)の平和に向けた努力を振り返ってみよう。

 
注目すべき点は、サダト大統領が73年の中東戦争でアラブ圏を初めて勝利に導いた軍事英雄という事実だ。当時エジプトはシリアと共にイスラエルを奇襲し、67年の六日戦争の屈辱を晴らした。六日戦争当時、エジプトは大敗の末、シナイ半島を失った。

サダト大統領は切歯腐心した。イスラエルの弱点を見つけて緻密に準備した。結局、73年10月6日、奇襲作戦でスエズ運河を渡ってシナイ半島に進軍した。イスラエルが予備軍召集に必要な放送も休むユダヤ教の祭日ヨムキプール(贖罪の日)に仕掛けた奇襲だ。エジプト軍はあらかじめ準備しておいたソ連製の対空・対戦車武器でイスラエルが優勢だった航空・機甲戦力を撃破した。過去の勝利に陶酔して敵を軽視していたイスラエルは絶体絶命の危機を迎えた。

エジプトは軍事力と外交戦の陽動作戦を見せた。サウジアラビアをはじめとするアラブ産油国は石油を武器に、イスラエルを支援する欧米に圧力を加えた。イスラエルが休戦を要請して米国が仲裁し、ソ連が同意した中、エジプトがこれを受け入れてひとまず銃声は止まった。イスラエルには絶体絶命の危機、エジプトには名誉回復の戦争だった。

エジプトのサダト大統領はこのように強い力を見せた後、打撃を受けたイスラエルと交渉に入った。エジプトの軍事力を知ったイスラエルもこれに呼応するしかなかった。サダト大統領とイスラエル右派政党リクードのメナヘム・ベギン首相(1913-1992年、在任77-83年)はともにタカ派だったが、力だけでは問題を解決できないことを誰よりもよく知っていた。

その背景にはエジプトの経済問題があった。77年にエジプト政府が財政難の中でパンなど生活必需品に対する補助金を廃止すると暴動が起こり、171人が死亡した。これを経験したサダト大統領は経済発展のためには果敢な平和戦略が必要だと判断した。この過程でサダト大統領は冷戦の両軸である米国とソ連にそれぞれ経済支援と平和仲裁を要請したが、ソ連は難色を示した。当時の米国のリチャード・ニクソン大統領はこれを「平和のための投資」で判断し、エジプトに経済・外交的支援を始めた。

サダト大統領は戦争4年後の77年、アラブ圏の首脳では初めてイスラエルを訪問し、クネセト(イスラエル国会)で演説した。この席でサダト大統領はアラブ最強国エジプトの指導者らしい姿を見せた。サダト大統領はイスラエルの首相や国会議員ではなく国民に平和を直接訴えた。イスラエルに最も厄介なパレスチナとの占領地問題の解決を強く促した。対等な関係の中で言うべきことを伝え、平和交渉をするという意志を表した。

【コラム】アラブ-イスラエルの平和を仲裁した米国、韓半島終戦協定を引き出せるのか(2)

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    2020.10.14 11:12
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    1978年、米キャンプデービッド別荘で平和交渉をしたエジプトのサダト大統領、米国のカーター大統領、イスラエルのベギン首相(左から)。[中央フォト]
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