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【コラム】「生計型親日」の活用を考えた金九と金日成も親日派か

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2020.09.14 14:26
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8・15行事の前後、また親日をめぐる論争が生じて国民の心を傷つけた。左・右争いがどれほど国の発展に役に立つのだろうか。反対側の出生自体を問題にするケースもある。党派主義とはいえ度が過ぎる情けない歴史論争だ。国立墓地埋葬の資格を改めて問いただしながら墓を移そうと主張するなど、このグローバル時代になぜ「剖棺斬屍」なのか。

解放政局の実情を調べるために新聞の資料を広げてみると、本当に厳しい歴史だという印象は否めない。呂運亨(ヨ・ウンヒョン)の建国準備委員会、米ソ両軍の進駐、米軍政、李承晩(イ・スンマン)博士の帰国、金九(キム・グ)先生をはじめとする臨時政府要人の不本意な個人資格の帰国、反託賛託の対峙、62回も空転した米ソ共同委員会、南北単独政府の樹立、そして同族間の争いの韓国戦争(朝鮮戦争)、こうした乱麻のような歴史がこの世にあるだろうか。いくらもつれた歴史であっても道筋をつけるのが歴史家の使命だ。その使命を果たすのは難しいが、歴史家としていくつかの考えを書いてみたい。

 
まず、左・右の正統性問題だ。解放政局で左派、中道左派が優勢だったのは事実だ。解放と同時に朴憲永(パク・ホンヨン)の朝鮮共産党が「コメ(配給)闘争」と「土地闘争」をイシューに掲げたのが功を奏して左翼優勢の政局が形成された。世論の70%がその方向に傾いた。この状況はあくまでも日帝の残酷なファシズムが残した遺産だ。1930年代以降、天皇制ファシズムが強まる状況で、日本国内でも左派が唯一の代案だった。コミンテルンが永久革命の旗幟としてファシズムと戦う弱小民族左派を支援し、我々の抗日戦線もその影響を少なからず受けた。しかし大韓民国臨時政府はコミンテルン側と一線を画して独自に国際的な地位を確保するために死闘しながら左派に対抗した。解放政局で社会主義左派が優勢を見せたのはあくまでも前時代の遺産であり、明日のための答えではなかった。1980年代の東欧圏の崩壊がこれを立証した。

2つ目、金九はなぜ平壌(ピョンヤン)に行ったのか。私は先生が南北交渉が実現することを期待して38度線を越えたとは見ていない。むしろ無駄になることを知りながらも引き止める手を振り払って遠い道に向かった。米ソ冷戦の下、国土と民族が真っ二つになる現実に対し、誰かがこれを防ごうと最善を尽くしたことを歴史に残すべきだという痛切な使命感の決行だった。

1948年3月に平壌を訪れ、5月にソウルに戻った後、ちっ居の末、10月26日の安重根(アン・ジュングン)義士ハルビン義挙記念日に漢詩を作って所懐を残した。「雪に覆われた野原を通る時でさえ、道がないからといってむやみに歩いてはいけない。いま私の歩いている足跡が、後日後ろの人の道になるだろうから」。先生は安重根義士が伊藤博文を処断して抗日運動の道を開いたように、自身の平壌行きが後日、民族分断の現実を打開する里程標になることを望んだのだ。先生は『私の願い』で共産主義者とは一緒にできないとはっきりと明らかにした。

3つ目、左・右のうち誰が歴史の勝利者だったのか。米軍政は初期に左派が率いる「コメ闘争」と「土地闘争」の大衆的な反響を見て対策を立て直した。1945年10月26日、この方面の専門家の李勲求(イ・フング)を訪ねて軍政庁の農相局長(農務部長)に任命した。彼は東京帝大農学部を出て1927年に米カンザス州立大学教大学院に入学、博士学位を取得し、1935年に『韓国の土地活用と農村経済』という著書(英文)を出した。軍政当局は彼の著述に基づき、韓国の小作農の比率が世界で類例がないほど高いという点、その原因が日帝の過酷な収奪のためであることを確認し、彼にこれを解消する改革案を準備させた。

1946年2月に軍政庁顧問団の一員として韓国に来たアーサー・バーンズとの協力がシナジー効果を出した。バーンズは1928年から6年間のYMCA農村更生活動で韓国の農村の実情に精通していた。米軍政は農務部の改革案として農地改革を断行する考えだった。しかし内部的にこれは韓国の新政府の名ですべきだという意見が多かった。軍政当局はすでに広まった噂を強く否認しながら隠した。

1947年8月15日に軍政当局は左翼政党活動を禁止した。南北分断が現実になった以上、左翼は北に舞台を移せという意味だった。この措置が農地改革を韓国の新政府の事業と決めた時点とほぼ一致するのは興味深い。1948年8月15日、李承晩政権が発足した。李承晩大統領は初代内閣の構成で朴憲永を批判して転向したチョ奉岩(チョ・ボンアム)を農林部長官に起用した。チョ奉岩は姜ジョン沢(カン・ジョンテク)を次官に抜てきし、農地改革法起草委員会を任せた。姜ジョン沢は東京帝国大学で近代朝鮮農業社会を研究した専門家だった。

新政権発足から10カ月後の1949年6月21日に制憲国会は政府が提出した「農地改革法」を通過させ、翌年3月25日に改正法律を公布、4月28日に施行規則を公布した。迅速な進行は全面的に李勲求が中心となった軍政農務部の事前調査のおかげだった。李勲求は制憲国会議員になり、土地所有上限と農産物償還年限で生じた変動を軍政原案側に改正する役割も遂行した。2カ月後、韓国戦争が勃発した。大韓民国の農民は動揺しなかった。農民は最大3町歩の土地所有者になるという夢を現実で体験した。

最後に親日問題を見よう。一線の戦闘司令官は参謀の重要性を知る。そのためか、光復軍を率いた金九先生とパルチザン闘争の金日成はともに「生計型親日」を新しい国の有用な人材として活用すべきだと主張した。とはいえ、誰も2人を親日とは言わない。一種の親日歴史観である植民地近代化論、果たして正当なのか。日本は近代化に成功し、韓国は努力もしなかったため日本の植民地になるしかなかったという歴史認識があまりにも広まっていて残念だ。この問題は学界で1960-70年代にすでに批判が終わったものだが、80年代に日本極右勢力の勢力拡大を背景に再び浮上した。これまで新たに明らかになった我々の自力近代化の成果をここであれこれと取り上げることはできないが、我々と彼らの近代化が根本的に違った点は明確にする必要がある。

日本が西洋技術文明を受け入れ、先を進んで大きな成果をあげたのは事実だ。しかしその近代化は周辺国侵略のための力の蓄えだった。明治執権勢力の長州藩の師匠・吉田松陰は日本が欧米列強の植民地にならないためにはその技術文明を速やかに習得して国力を高め、周辺国を彼らよりも先に占めるべきだと教えた。侵略対象に北海道・琉球・台湾・朝鮮・満州・モンゴル・中国を列挙し、最後に太平洋に向かってカリフォルニア、オーストラリアなどに進出すべきだと主張した。

伊藤博文など彼の弟子と後輩は驚くことにこれを順に実践し、半世紀の間に8度も大きな戦争を起こした。この「企画」侵略主義は決して欧米の帝国主義と同じではない。彼らは天皇が支配する新しい世界、大東亜の建設、世界の八方がすべて天皇の懐に収まる八紘一宇を実現しようとファシズムの鎧をかぶった。韓国の近代化はこの侵略主義に真っ先に踏みにじられて完走の機会を失ったのであり、決して努力をしなかったのではない。

ハーグ特使派遣で強制的に退位させられた高宗(コジョン)皇帝は1909年3月15日、大韓帝国は私のものではなく万姓のものだと宣言した。自由があってこそ民であり、独立があってこそ国だと自由民主主義の理念を国是として明らかにし、力を合わせて国を守るよう強調した。厳粛な主権委譲の瞬間だった。我々はこのように近代を自由民主主義に進んだ半面、彼らは万世一系の天皇制を誇りながら周辺国服属の軍国主義に向かった。我々の先祖、先輩の抗日闘争は、世界史上類例がない天皇制ファシズムの不義と残酷との対決だった。自由守護のこの崇高な大行進を植民地近代化論などで消そうとするのがおかしい。

抗日闘争のエネルギーが解放政局の1カ所に集まった。主義・主張の争いが激しかった。この特別な歴史は左・右の視点を問わず客観的な研究対象として、民族発展のための反すうの資産とすべきだろう。この貴重な遺産をめぐり、今日の自分の立場のために恣意的な解釈や排撃の暴言を加えるのは妄動だ。帝国日本が我々の近代行進をつぶした行為は懲らしめられるべきだろう。したがって彼らを平和共存の世界に導く資格が我々に残っていることも忘れないでおこう。

李泰鎮(イ・テジン)/ソウル大名誉教授(韓国史)

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    1945年8月15日、日帝植民統治35年から解放を迎えた人々が「大韓独立万歳」を叫んでいる。[中央フォト]
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