【コラム】大韓民国は戦争英雄をどう送るのか(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2020.06.19 15:28
「他のところでは護国英霊という言葉を使いますが、ここでは救国英霊と表現します」。
慶尚北道漆谷郡(チルゴクグン)の多富洞(タブドン)戦跡記念館で会ったシン・スルウ館長が無名勇士の遺骨が埋められた墓を指しながらこう語った。1950年の多富洞戦闘で勝利して韓国戦争(朝鮮戦争)の流れを変えたことで、地図上から永遠に消えるところだった大韓民国を救ったという意味だと、シン館長は強調した。8月1日から9月24日まで55日間続いた激しい戦闘で多富洞が占領されていれば、洛東江(ナクトンガン)防御ラインが壊滅し、釜山(プサン)まで北朝鮮軍の支配下に入るのは時間の問題だった。
装備と兵力ともに衆寡不敵でどれほど持ちこたえるかがカギだった戦いに勝って北上する手綱を引いた名将が、当時の第1師団長だった白善ヨプ(ペク・ソンヨプ)将軍だ。兵士より前に立ちながら「私が退けば私を撃て」と士気を高めた。米陸軍士官学校の教材にも登場し、2017年まで毎年、日本陸上自衛隊幹部候補生400人が多富洞戦跡地を踏査するなど世界戦史の1ページを飾った戦闘だ。白善ヨプ氏は韓国戦争中の▼最初の平壌(ピョンヤン)入城▼ソウル再奪還▼31歳最年少参謀総長▼韓国軍初大将進級--など多くの記録を持つ「生きた伝説」だ。満100歳の白善ヨプ氏は年初から入院して闘病中だ。「生きた」という修飾語を切り離さなければならない時期が近づいている。