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日本で30年安重根と独島研究…韓日に難題起きるたびに解決者に

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2020.05.27 10:56
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独島領有権問題が起きた2005年4月、崔書勉国際韓国研究院長(右から2人目)が日本の国会議員の要請により自身の研究成果を説明し、「竹島は日本の領土」とする主張の問題点を指摘している。[中央フォト]
26日に92歳で死去した崔書勉(チェ・ソミョン)氏は百科事典的知識人で、実践的愛国者だった。個人の栄達よりも歴史的天命と国の将来を優先した志士であり、韓日関係の水面下の民間外交チャンネルであると同時に、眠っていた近現代史史料を発掘した歴史研究者だった。

1928年に江原道原州(カンウォンド・ウォンジュ)で生まれた故人の一生は激動の韓国現代史とともにあった。延禧(ヨンヒ)専門学校時代に学生団体を組織して信託統治反対運動を先導し解放政局の荒波に飛び込んだ。李承晩(イ・スンマン)と金九(キム・グ)に二分化された中で金九の路線についた故人は、金九の密書を携えてチョ晩植(チョ・マンシク)と反信託統治共同戦線を広げようと密かに38度線を越えたりもした。晩年の故人は「若い時代に金九の教えを受けたことが私の一生の羅針盤になった」と述懐した。1949年に張徳秀(チャン・ドクス)暗殺事件に関与して実刑判決を受けた時に李始栄(イ・シヨン)元副首相が書いた揮毫を基に、本名の重夏(ジュンハ)の代わりに書勉という名前で生きた。後に史料と外交文書、古地図研究発掘がライフワークになることを予言した名前だった。

 
獄中でカトリックに帰依した故人は、韓国戦争(朝鮮戦争)当時に釜山(プサン)で孤児院運営に献身し、盧基南(ノ・ギナム)元大主教によりカトリック総務院事務局長に抜擢された。この時事務総長だった張勉(チャン・ミョン)元首相の秘書を兼職したことで自由党政権により張勉の側近に分類された。

運命は1957年に急転する。自由党政権が張徳秀事件を再論して逮捕の危機に置かれた故人は亡命した。東京に滞在しながら国会図書館などで日帝強占期の史料に触れた後、人生の方向を韓国近現代史研究に転じた。「史料の海におぼれてみたら、韓国の歴史を知らないことを悟り限りなく恥ずかしかった」と話した。その後史料研究に没頭した。安重根(アン・ジュングン)の自叙伝『安応七歴史』を古書店で探し、靖国神社裏に放置された壬辰倭乱当時の北関大捷碑を見つけ出し韓国返還を実現させた。独島(ドクト、日本名・竹島)は日本の固有領土という主張に反論する日本の史料を大量に発掘し学界に伝播したのも故人だ。

1987年まで30年間にわたり日本に滞在した故人は日本の政界と学界、言論界に厚い人脈を築き、一度縁を結んだ日本の指導層を親韓派にした。その中でも福田赳夫元首相、岸信介元首相との親交は格別で、これを通じて朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領に多くの諮問と助けを与えた。彼の家は韓日関係に難題が起きるたびに解決してくれる第2の大使館の役割をした。

故人の博学多識は持って生まれた記憶力と執念、努力の結果だった。ユーモアと余裕あふれる人柄、原則を失わない姿勢、事物の本質を貫く鋭い洞察力を学ぼうと彼の周囲にはいつも人があふれていた。日本政府と日本人の歴史認識は厳しく批判したが、日本各界の人々は「崔書勉先生を囲む会」を作り故人に教えを求めた。彼が残した遺産は膨大な研究史料がすべてだ。ほとんどは生前に母校である延世(ヨンセ)大学図書館と外交通商部などに寄贈された。故人は韓国と日本の研究機関に口述回顧録を残した。その中で日本の研究者に残した一部が『崔書勉に聞く』というタイトルで先月刊行された。

故人の葬儀は崔書勉博士葬儀委員会の主管により家族・社会葬で進められる。遺族は夫人の金恵静(キム・ヘジョン)元慶熙(キョンヒ)大学恵静博物館長と米国に居住する長男アンディ氏ら。葬儀場はソウル・江南(カンナム)聖母病院葬儀場。出棺は28日午前8時。

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