주요 기사 바로가기

グッバイ本塁打王…日本野球の伝説、野村克也氏が死去

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2020.02.13 08:55
0
これは昔の話だ。病気の未亡人の母のもと、兄弟がいた。弟の10歳の少年は新聞配達で中学生の兄の学費を稼いだ。兄は少年が高校にも行けないと思って大学進学をあきらめた。少年は高校をなんとか終えた後、南海ホークス(現福岡)入団テストに参加した。ブルペン捕手として入団した少年は球団史上初めてプロ選手となった。日本野球の伝説的な捕手、野村克也氏(1935-2020)の話だ。

多くの本を読んで書いたことでも有名な野村氏の代表的な著書は『弱者の兵法』だ。本のタイトルを見ても彼の野球人生を想像できる。野村氏はそれほど才能がある選手ではなかった。入団1年で解雇を告げられた。野村氏はひざをついて球団の職員に哀願した。「もう一度だけチャンスをください。解雇されれば南海電車に飛び込みます」。

野村氏は必死に努力した。ウェートトレーニングの概念がなかった時代、空き瓶に砂を入れてバーベルのようにして筋肉を鍛えた。野村氏は当時、他の捕手が怠っていた打撃練習にも集中した。打撃が向上すると、球団は野村氏を一塁手に移そうとした。捕手をするには肩があまりにも弱かった。しかし野村氏は必死にボールを投げて肩を鍛えた。選手がつらいと感じるポジションで持ちこたえてこそ長く生き残ることができると信じた。

野村氏は入団3年目で1軍選手になり、すぐに本塁打王(30本)になった。試合中に指を骨折してもこれを隠したままシーズンを終えた。けがよりも後輩にポジションを奪われることを恐れた。

若い頃の野村氏は大変な努力をした。ただ頑張ったというわけではない。野村氏は「間違った姿勢と方法で練習をすれば、後で矯正するのが2倍難しい。いろいろと悩んで方向を決めてから努力しなければいけない」と語った。野村氏は1980年、45歳で現役を引退するまで9回も本塁打王(通算657本、歴代2位)を獲得した。リーグ最優秀選手にも5回選ばれた。

身長(175センチ)も高くなくパワーもなかった野村氏は絶えず画面とデータを分析した。野村氏は当代最高投手の稲生和久氏(1937-2007)を攻略するため夜に繰り返しビデオテープを見た。投球フォームのクセを見抜いた野村氏は稲尾氏のボールを打ち始めた。日本式分析野球の始まりだった。

野村氏は「嫉妬の化身」だった。他球団の選手との酒の席で後輩が突然立ち上がった。この後輩は「先に帰ります。夜の練習をします」と話した。野村氏は「あの後輩は私の記録をすべて塗り替えるだろう」と言って苦笑したという。その後輩が通算868本塁打を放った王貞治氏(80)だ。後に野村氏は「私が彼の後輩だったなら彼を越えるためにさらに努力していただろう」と語った。

選手兼監督時代を含めて野村氏は24年間、プロ野球の指揮官を務めた。ヤクルトの監督として日本シリーズで3度優勝した。しかし野村氏は最下位の南海と楽天をポストシーズンに導いたことで有名だった。野村氏は選手の小さな才能を見いだして大きな変化を生み出した。正面勝負を避けるが、長いレースに勝つ方法を知っていた。

もう一度言っておくが、これは昔の話だ。今は野村氏のデータ解析が必要ないほど記録が具体的だ。野村氏がした「努力」を今の選手に強要してはいけない。ただ、野村氏の野球は一時代を風靡し、現代野球はその基盤の上で発展している事実まで否定することはできない。

野村氏は11日、85歳の年齢で死去した。貧困から逃れようと野球を始めた少年は大金を稼いでも野球を離れることができなかった。2002年には社会人野球チームの監督を務めた。「私は生涯捕手」という野村氏はどこかで誰かのボールを受けているかもしれない。グッバイ、オールドボーイ。野球がある別の世界で、シ・ユー・アゲイン。

関連記事

最新記事

    もっと見る 0 / 0

    포토뷰어

    グッバイ本塁打王…日本野球の伝説、野村克也氏が死去

    2020.02.13 08:55
    뉴스 메뉴 보기
    野村克也氏は74歳だった2009年まで楽天の監督を務めた。日本野球で最高齢監督だった。野村氏は最後の試合で敗れたが、選手たちに胴上げされた。[写真 楽天ゴールデンイーグルス]
    TOP