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【時視各角】道徳のくびきを外すことにしたのか=韓国

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.04.12 16:47
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突然、実用主義者にでもなったのだろうか。青瓦台(チョンワデ、大統領府)はもう人を起用する際、能力だけを見ることにしたようだ。道徳性で論議を呼んだ閣僚たちを何ともなく任命した。ほかのことはともかく卓越した株式運用能力の一つだけは見せた判事を憲法裁判官に指名した。不良検証のせいだけにすることではない。欠陥を知りながらも指名したのだから。「反対の多かった閣僚がむしろうまくやる」と言った大統領だ。新しい閣僚に任命状を渡す時も大統領の注文は「能力を見せてほしい」だった。

果たして道徳と能力は別だろうか。残念ながらそうでないことを示す研究が昨年2月、米国心理学会学術誌で発表された。「道徳性に対する印象がその人の能力に対する印象にまで影響を及ぼす」。ジェニファー・ステラ・トロント大教授とロブ・ウィラー・スタンフォード大教授が6つの個別の心理実験を実行・分析して出した結論だ。ある対象の非道徳的な姿を見ると、その後に有能な姿を見ても能力をあまり認めなくなる。反則やトリックで成果を出したと考えるからだ。

 
文在寅(ムン・ジェイン)大統領が人事基準で道徳性を捨てるはずがない。刃が外側だけに向かっているのが問題だ。野党が最後まで反対した閣僚候補4人のうち2人は生き残り、2人は脱落した。インサイダーのためにアウトサイダーが犠牲になったということを否認しがたい。新しい閣僚に任命状を渡した5日後の国務会議で大統領は臨時政府100周年のメッセージを出した。「特権層同士が結託・談合・共生して国民の平凡な生活に挫折と傷を与える特権と反則の時代を終わらせなければいけない」。閣僚たちは動揺しただろうか。ただ、自分のことではないと済ませただろうか。

政治から道徳を安易に分離することはできない。その場合、共同体の維持まで難しくなる。マキャベリの『君主論』を「道徳無用論」として読めば深刻な誤読だ。政治の本質は道徳でなく権力にあると看破しただけだ。道徳は当然、政治の強大な道具だ。遺伝子から違うという現政権が知らないはずはない。しかし片方だけに適用される道徳はマキャベリズムにもなれない。

道徳の虚飾を取りはらうところは政治でなく経済だ。道徳問題で揺れる政治とは違い、経済は道徳過剰で道を失った。性急な積弊清算スローガンの中で実用主義は消えた。結果は高コストだ。まだ十分に使用できる原発は承認年限になったという理由で閉鎖し、建設中の原発は白紙にしてしまった。検証されていない効用分析を前面に出して問題のない堰を取り壊そうとする状況だ。国家機関を総動員するかのように「非道徳的」財閥に圧力を加え、結局「権力殺人」という声まで出てきた。

人間の本性までも無視した道徳主義経済は偽善を生むしかない。その逆風が閣僚候補の脱落で済めば幸いだ。庶民と青年の苦痛はどうするのか。事実上の破産宣告を受けた所得主導成長は族譜にまで言及しながら最後までやめない雰囲気だ。均衡発展論理を前に出しながら、国の金庫を守ってきた予備妥当性調査のカギまでもこじ開けている。未来の世代に何を残すのかを考える姿はまったく見えない。善意を前面に出した政策に最も苦痛を受ける集団は結局、弱者だ。毎月発表される雇用統計が語っている。

上で言及した心理学研究には付随的な結論がある。道徳と能力は不可分の関係だが、2つのうちどちらを先に見るかによって被験者の反応は微妙に違った。能力を先に見た後に非道徳的な姿を見れば、2つの側面を別々に見る傾向が強まった。「能力はあるが、道徳性はちょっと…」ということだ。道徳と能力を同時に見せる自信がなければ、能力から見せる方がよいということだ。今の政府の姿はどうだろうか。

道徳を失った政治の末路はせいぜい失権だ。しかし道徳に埋没した経済の終着地は亡国だ。ベネズエラで見ているではないか。

イ・ヒョンサン/論説委員

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