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日本の「爆弾三勇士」は偽り…75年ぶりに明らかになった軍国の真実

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.01.28 09:03
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1932年1月28日、日本が居留民を保護するという名分で租借地だった上海に軍隊を電撃上陸させた。中国軍との衝突は避けられなかった。いわゆる第1次上海事変だが、これは日本が満州に傀儡国を樹立する間にその他列強の耳目を上海に引きつけるための一種の「声東撃西」作戦だ。

上海市外郭に突破を試みた日本軍は中国軍の抵抗に阻まれ苦戦した。1カ月ほど後の2月22日にどうにか目標を占領するのに成功した。多くの辛酸と苦難の末に収めた勝利だ。

 
勝利の余波は日本本土に予想外に流れていった。大阪朝日新聞が2月24日に、爆弾を抱え3人の兵士が突撃路を開くため敵陣に勇敢に躍り込み鉄条網を爆破して散華したと報道したためだ。

その後大阪毎日新聞をはじめとする他のメディアもこれを引用し後追い報道した。単に戦線の動静を知らせる程度だったが波紋は予想を上回った。これら兵士3人が志願して勇敢に戦い散華したというニュースに読者の反応は熱く燃え上がった。

第18工兵大隊所属の江下武二をはじめとする3人の戦死者はあっという間にすべての日本人の関心事に上がった。もちろん侵略戦争中だった当時、日本で戦死者の発生は珍しくもない日常だ。しかし彼らの死はとても壮烈だとして連日称賛が続いた。

日本での熱い反響は想像以上だった。全国単位で遺族を助けるための行事が開かれ6万 5000円の募金が集まった。1930年代初めの日本の労働者の平均月給が50円だった点を考えるならば途轍もない大金だ。

日本政府も戦死者3人を「爆弾三勇士」と名付け侵略戦争を美化する道具として積極的に活用した。追慕曲と映画を作り強制的に聞かせて見せた。宣伝パンフレットを学校に配布し試験問題として出題するよう指示することもした。

戦死者3人を神格化しようと東京都内の青松寺に銅像を建てることまでした。結局多くの人が半強制的に参拝しなければならなかった。太平洋戦争が始まり戦況が悪くなると日本軍部は「爆弾三勇士を見習い天皇と帝国のためにいつでも命を捧げよう」として宣伝強度を高めた。

事実日本では1904年の日露戦争での旅順戦闘後に兵士らを無謀に消耗した事例は多かった。しかし爆弾三勇士は自爆特攻隊「神風」、人海戦術「バンザイ突撃」、玉のように美しく散るという意味の「玉砕」のような恐ろしい狂気の出発点になった。一言で国民の生命を軽く見たあきれた時代の自画像だ。

しかし「爆弾三勇士」には隠された真実がある。彼らが戦死したのは事実だが、自ら任務に志願して散華したのではなかった。上官の命令により投入された他の部隊員と同じ立場だった。むしろ目標地点に遅く到着し意図せず爆死した。目標地点に適時に到着した軍人は全員無事だった。もちろん爆死した彼らの死をけなすことはできないが、伝えられた話は歪曲された。戦死者が出た部隊も最初は「作戦中一部犠牲があった」という程度で会見しただけだった。

このように平凡だった戦闘成果はどのような理由で美化されることになったのだろうか、特ダネを取るため血眼になった記者のためだ。取材をしっかりせず勝利の知らせに陶酔して記事を出しながら小説を書くように美化したためだ。

歪曲された内容を訂正しなければならなかった。ところが記事が出た後の読者の反応は手が付けられないほど大きくなった。修正することはできない状態にまで達した。虚構で膨らみねつ造されたニュースだが日本政府は宣伝手段として利用した。一言でどさくさで作られた英雄を軍国主義者らが徹底して利用したいんちきだった。

しかし真実を永遠に埋めておくことはできなかった。2007年6月13日、朝日新聞は彼らの間違いを知らせ許しを請うた。実に75年が過ぎてから出てきた告白だ。そのまま放置することができず真実告白に出た。これまで日本社会に及ぼした影響があまりに大きかったためだ。真実を話す勇気を持つにもそれだけの時間が必要だった。

いまでは変わったのだろうか。しかし日本は最近過去史の反省を拒否し軍国主義時代に回帰する姿を露骨に見せている。軍国主義の影は依然として残っている。ますます濃くなっている。

ナム・ドヒョン/軍事コラムニスト



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