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豊臣秀吉の目に留まった朝鮮茶碗、日本に渡って国宝に

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2018.11.06 08:52
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「私が死ぬ前に望みがあるとすれば、この窯を復元して朝鮮の茶碗を作ることだ。実現すれば500年間余り途切れた朝鮮茶碗の真の再現となるだろう」。

3日、慶尚南道昌原市鎮海(チンヘ)の熊川(ウンチョン)陶甕址展示館で会った崔熊鐸(チェ・ウンテク)沙器匠(64)は2002年に発掘された6つの窯跡を眺めながらこのように語った。この日午後、後輩の学者と共に、忘れられた朝鮮陶工125人の第19回追悼祭をした直後だった。

 
熊川宝賠山井谷にある熊川陶甕址の窯跡は1500年代初めから低品質の茶碗を焼いていたところだ。生活に使う茶碗で、高麗青磁から朝鮮時代の白磁、または粉青沙器として作られた。

しかし1598年、100年を満たすことなくここは閉窯となった。丁酉再乱(慶長の役)が終わる頃、熊川陶甕址の陶工とその家族125人が退却する日本軍に強制的に連行され、窯跡の火が消えて命脈が途絶えたのだ。

朝鮮茶碗は壬辰倭乱(文禄の役)前後の16世紀後半から日本で注目された。当時壬辰倭乱を起こした豊臣秀吉が朝鮮から持ち帰った茶碗を「井戸茶碗」と呼んで茶会を開き、その時に使った茶碗が日本国宝26号に指定された「喜左衛門井戸茶碗」だ。当時から朝鮮の茶碗は井戸茶碗と呼ばれ、その後、連行された朝鮮陶工らが長崎平戸島など各地で作った。井戸茶碗は今でも日本で最高の茶碗として評価されている。

この茶碗をおよそ500年ぶりに朝鮮陶磁器の由来地の一つ、熊川で再現し、朝鮮沙器匠の脈を受け継いでいるのが崔熊鐸氏だ。豊臣秀吉が絶賛した井戸茶碗も熊川で作られたものと崔氏らは推定している。

崔氏は鎮海宝賠山の近くで生まれた。幼い頃から山のふもとのあちこちに落ちている陶片に接して育った。そして30余年前から宝賠山のふもとに「熊川窯」を作って朝鮮陶磁器の脈を継いでいる。崔氏は「山に埋まっている陶片が師であり、私の学習の場だった」とし「日本に渡った先祖とその子孫が作った作品を見ながら再現している」と話した。

崔氏はほとんど毎日、宝賠山に登る。茶碗に使われる最も重要な材料の三白土(白色・黄色・赤色)を手に入れるためだ。崔氏は「ほかの地域の土で作れば熊川陶磁器ではない」と語った。

三白土を松の枝にのせ、その上に雨水を注いで濾過した後に熟成させれば粘性を持つ粘土となる。この粘土を轆轤に乗せて茶碗を制作した後、牡蠣の殻で作った釉薬を塗る。朝鮮陶工の方法を同じだ。

客を迎える崔氏の応接室には宝賠山で発掘した陶片が並んでいる。陶芸を学んだことがない崔氏にとってその陶片は唯一の師だった。崔氏は「この陶片を見ながら土、釉薬、成形、火の強さなど茶碗を作る方法を習った。言葉のない師匠」と話した。

熊川茶碗といえば自然の美しさと素朴さだ。崔氏が作る茶碗にもその特長がそのまま表れている。轆轤にのせられた粘土を成形する時に素朴さを残し、一年に3、4回ほど窯焚きをする。1000点ほどの茶碗が窯に入るが、生き残るのはわずか10点ほどだ。残りはすべて割れて土に埋められる。

これまで崔氏の弟子は10人ほどいる。一部は崔氏と共に、一部は独立して熊川陶窯の脈を受け継いでいる。

崔氏には最後の夢がある。発見された窯跡のうち原形が残っているところで朝鮮陶磁器をを再現することだ。「土から茶碗を作る人に欲などない。最後の望みがあるとすれば、先祖の窯跡で昔のやり方で朝鮮茶碗を焼くことだ」。

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    豊臣秀吉の目に留まった朝鮮茶碗、日本に渡って国宝に

    2018.11.06 08:52
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    壬辰倭乱当時に日本に連れて行かれた熊川の陶工125人の追悼祭をする崔熊鐸氏。写真下は井戸茶碗(中央フォト)
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