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高齢者の暇つぶし場所に転落した三一節の聖地「タプコル公園」(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2018.08.14 10:09
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先月27日午後4時。ソウルのタプコル公園は暑かった。スマートフォンの画面を見ると気温34度を表示していた。一緒に公園を訪れたイ・ホソン崇実サイバー大学教授(キリスト教相談福祉学科)が八角亭の左側のベンチを見てほしいという。イ教授は2000年代後半からタプコル公園の高齢者の実態を研究してきた。高齢女性1人に高齢男性2人。女性は一般の外出者の姿ではない。服装や印象が少し異なる。イ教授は「このように言葉を交わしながら交渉が成立すれば公園の隈に行ってスキンシップをする」と話した。男性を相手に体を売る「バッカス婆さん」である可能性が高いということだった。

来年100周年を迎える三一独立運動の発祥地タプコル公園の現状だ。世界的に類例がない非暴力抵抗運動が始まったところだと自負するが、そのような歴史性を21世紀のタプコル公園で見つけるのは難しかった。時間を持て余すが経済的な余裕がない老年層の集合場所というイメージが依然として強い。活気あふれるシルバー空間という見方もあるが、怪談が忘れる頃には浮上する。

 
タプコル公園の受難は昨日今日のことでない。時代の流れ、政治理念の変化によって大小の浮沈を経験してきた。公園は朝鮮最後の王であり大韓帝国の初代皇帝である高宗(コジョン、1852-1919)の近代化プロジェクトの一環だった。1895年に日帝により妻の閔妃を亡くした高宗は翌年、ロシア公使館に移った状況で「都市改造準則」を発表した。道路に食い込んできた「仮家」を撤去して道を拡張する事業に注力した。

タプコル公園もこの当時から推進された。ソウル大の李泰鎮(イ・テジン)国史学科名誉教授は「1896年度支部(国家財政担当)顧問だった英国人マクレビー・ブラウンの建議でタプコル公園が造成されたという従来の歴史解釈は誤り」と述べた。首都の顔を変える敏感な事業が国王の政治的な決断なく進行されるのは難しかったということだ。19世紀に欧州で芽生えた近代公園は産業化によって悪化した都市民の福祉と衛生のための空間だった。タプコル公園の造成は、産業化を経験していなかった大韓帝国が表情だけでも近代に追いつこうとする努力だったということだ。

公園の最初の受難は日帝時代だ。1910年の韓日併合で総督府は1914年に公園内に塔茶園を開設し、生ビールなどを売った。1919年に茶園を増築して「勝利」という名の料亭を出した。1919年に逝去した高宗皇帝の立場では深刻な毀損に違いない。

都市空間の意味は、どちらか一方の立場だけを一方的に反映して裁断されたり決定されたりしない。それよりも自由な個性を追求する個人と政治・経済論理を前に出し、支配力を維持しようとする既得権層間の対立と葛藤によって性格が規定される(文学評論家シン・スジョン)。

タプコル公園も長い目で見るとこのように対立の過程を経験した。故朴正煕(パク・ジョンヒ)大統領は国家再建会議議長だった1963年、公園に三一運動記念塔を設置した。直筆のハングルの扁額「三一門(サムイルムン)」をメインの出入口の南門に掲げた。記念塔は79年に新軍部によって、三一門の扁額は2001年に韓国民族精気蘇生会という団体によってそれぞれ撤去された。

こうした中、公園は自由な個人によってそれなりに活用された。中央日報1967年12月16日付の3面記事はその当時の公園の風景を伝えている。

解放後の管理が不十分な状況でホームレスの休息所に、夏の避暑地だった公園が記事が掲載される頃には高齢者の休息所、憂国志士が不満をいう場所、子どもには十層石塔に上ったりする遊び場だったということだ。


高齢者の暇つぶし場所に転落した三一節の聖地「タプコル公園」(2)

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    高齢者の暇つぶし場所に転落した三一節の聖地「タプコル公園」(1)

    2018.08.14 10:09
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    公園内にある孫秉熙(ソン・ビョンヒ)の銅像。民族代表33人の一人であり、三一運動を主導した。
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