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韓国がヘル朝鮮? 私には新しい人生を与えてくれたありがたい国

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2018.03.20 10:10
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「韓国の若者たちが『ヘル朝鮮』と言うことを聞いて残念だった。それでもあきらめないでほしい。私は結核で死の間際に置かれたことがあるが、友達の後援で克服して新しい人生を生きている」

最近、訪韓したエチオピアの薬剤師エンダカチュ・ペカドゥさん(32)は「エチオピア医学情報ネットワーク」と医療関係者が主軸である「エチオピア保健医療ボランティア団」の創立者兼代表だ。UNTAID(国際医薬品購入機関)理事会の結核部門代表団の一員であり、国連傘下結核退治委員会委員も務めている。彼の結核退治活動は2015年、英国日刊紙ガーディアンに大きく紹介された。今年1~2月に国際機構が位置したスイスなど6カ国を回りながら持続的な支援を訴えた彼はのような目的で訪韓した。

 
エンダカチュさんと韓国の縁は14年前、国際児童支援団体「コンパッション」を通じて結ばれた。首都アディスアベバで生まれた彼は、未亡人の母の下で3人兄弟と共に育った。

「靴がなくて自動車タイヤから出た廃ゴムでゴム靴を作って履いた。毎日お腹がすいた。数多くの子供たちが結核や病気で亡くなる場面を目撃した」。9歳の時、教会を通じてコンパッションの支援児童に選ばれた。コンパッションは一日の生活費が2ドル(約212円)未満、あるいは親が小学校以下の学歴を持つ子供、病気のために経済的に脆弱な家庭の児童を先に支援対象に選抜する。

エンダカチュさんはその日のことを今でも覚えていた。「熱いだけだと思っていた日差しが暖かく感じられ、度々思わず笑いが出た。その後、廃タイヤ靴の代わりに運動靴を履いて学校に通うことができるようになった」。

その後、彼はアディスアベバ大学薬学大学に進学した。自身が受けた援助を分かち合うことのできる人になりたいと思ったからだ。

しかし、死の影が嘘のように忍び寄った。大学に入って1年で珍しい疾患である「多剤耐性結核(治療剤耐性ができて治療が難しい結核)」を病んだ。市中に出ている抗生剤が利かず、薬の価格も高かった。病気は悪化した。話もできず、食べることもできない状態になった。「先が見えなかった。ただ生きたかった」。

死の間際に夢も贅沢だった。後援者の支援で2年間治療を受けたあげく2007年に完治した。死の峠を超えたエンダカチュさんは人生の意味を考えた。彼は「エチオピアでは毎年12万5000人の結核患者が発生するが、その中で5000人程度は私が体験した多剤耐性結核患者だ」として「わが国や地域社会、国民が苦痛に強いられず、さらに教育を受けるようにしたいと決心した」と話した。

彼は元金100ドルで事業を始めた。気の合う友達を集めた。国際機関・政治家・企業らに手紙を送って後援を求めた。雑誌社を通じて地域ネットワークを作り、医療奉仕団非政府機構(NGO)も設立した。医療情報雑誌はエチオピアの公用語であるアムハラ語と英語で専門家用と市民用に分けて2カ月に一度発行した。最近では市民がインターネットとスマートフォンを通じて情報を得ることができるようにオンラインページを開設した。

エンダカチュさんは「腐敗と貧困はエチオピアの大きな問題」として「結核やマラリア、貧困に関連した病気が非常に多いが、立法者の認識改善を通じてエチオピアを変化させたい」と話した。彼は「私は救護団体の支援でここまで来られた」として「韓国が他の国を助けるようにエチオピアもまもなく貧困から抜け出して分かち合いを実践できる国になってほしい。そのことに私が貢献するのが私の残りの夢」と強調した。

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    2018.03.20 10:10
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    未亡人の母の下で厳しい生活を強いられながら育ったエンダカチュ・ペカドゥさん。国際支援団体コンパッションの援助で大学に進学した。(写真=コンパッション)
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