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【時視各角】北朝鮮というタダ乗り客を乗せた運転者がすべきこと

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2018.01.10 14:12
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1998年2月14日、イランのテヘラン空港に米国レスリング国家代表選手5人が入国するや空港は歓声に包まれた。現地の記者200人が集まり、彼らの到着場面は生放送で中継された。米国との関係正常化を希望するイランのハタミ大統領の提案が導火線になった。米大使館人質事件で国交が断絶してから18年ぶりの交流を米国務省も祝った。5日後、アザディ・スタジアムに米選手たちが入場すると1万2000席を満員で埋めたイラン観衆は起立拍手で歓迎した。同盟国同様だった。両国関係の雪解けを見るような瞬間だった。それから4カ月。フランス・ワールドカップ(W杯)サッカー予選で正面対立した米国-イランの試合でイランが勝利すると、最高指導者のハメネイ師はこのように叫んだ。「我々は今夜、傲慢な我らが敵に敗北の苦味を舐めさせた」。

「ならずもの国家外交」の権威者であるイェール大学のマイケル・ルービン博士(歴史学)は「国際スポーツイベントが敵を味方に変えることはない」と断言する。一時的に相手国の国民の心をほぐすことはあっても、結局は相手を敵と見る「指導者のリーダーシップ」のせいで「観点」そのものが変化することはないということだ。

 
全世界が見守る南北高官会談の結果はどうだろうか。歴史を振り返ってみよう。

南北が初めて単一チームを構成したのは91年4月、日本の千葉で開かれた世界卓球選手権大会。南北は「コリア」という名称を使い、「朝鮮半島旗」を持って入場した。北朝鮮はそれほど経たずして核拡散防止条約(NPT)から脱退し、核開発を加速させていった。

2006年2月トリノ冬季オリンピック(五輪)。南北は交渉を通じて「COREA」というプラカードと朝鮮半島旗を持って同時入場した。5カ月後、北朝鮮は長距離テポドン2号を含めミサイル7発を一度に発射した。そして3カ月後、1回目の核実験に踏み切った。

一言で言えば、北朝鮮にとって韓国とのスポーツ対話と交流は緊張と制裁の手綱を緩めるためのただの手段に過ぎなかった。核開発の意志を弱めたり遅らせたりした歴史的経験は一度たりともなかった。新年の挨拶も同様だ。北朝鮮は2015年と2016年の新年の挨拶で南北対話再開の可能性を言及しておきながら、木箱入り地雷挑発(2015年)や4回目の核実験(2016年)を敢行した。イランと同じように、北朝鮮指導者のリーダーシップは変わっていなかったのだ。

「100%支持する」という米国の変身に期待を持ちすぎるのも禁物だ。基本的にトランプは「自慢屋」だ。何でも自分の自慢にさえつながれば万事OKだ。そうした点で、文在寅(ムン・ジェイン)大統領が「トランプ大統領のレトリック(修辞)と強い態度がなかったなら南北対話はなかっただろう。感謝する」と褒めたことは妙手だった。すぐにトランプが「ほら見ろ。私のおかげだと言っているじゃないか」という態度を示したためだ。だが、少しでも不利な局面が展開しようものなら、突然豹変して「私は明らかに、その時、強く阻止した」と言うのがトランプという人物だ。「国際社会制裁」の枠組みを越えても擁護してくれるだろうと考えるのは純真で危険な考えだ。イランのハメネイ師の裏切りの教訓は根深い。

北朝鮮の策略は分かりやすい。韓国を運転席に座らせて自惚れさせた後、自身は後部座席の上席に座って韓米合同軍事演習の中断や核保有国認定という目的地まで「タダ乗り」しようとするものだ。オリンピックは安全かつ盛大に成功させるべき祭典だが、それが韓国の最終目的地ではないということを肝に銘じておかなければならない。ややもすると道を間違えて、最終目的地「北朝鮮の非核化」からはるか遠くに進んでしまうのがオチだ。

興奮を沈めること、甘言に乗らないこと、中間で降ろさせないようにすること、結局警察署(軍事行動)に行きたくなければ料金(非核化)を支払う道しかないことを説得させること。北朝鮮というタダ乗り客を乗せた運転者がすることだ。

金玄基(キム・ヒョンギ)/ワシントン総局長

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