【社説】「大韓帝国無知」が引き起こす「大韓民国建国」議論(2)
ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版2017.08.20 13:06
1894年(甲午年)に朝鮮人20万人以上が犠牲になった「甲午倭乱」を日帝は歴史から抜け落として「甲午更張」という用語で美化・歪曲した。甲午倭乱の延長線で「引俄拒日(ロシアを引き込み日本を牽制)」政策を展開した明成(ミョンソン)皇后を日本軍が殺害した天人共怒する事件を「乙未事変」という中立的表現でごまかしたのも日帝だった。事実上亡国状況で抗日独立戦争を継続するために高宗(コジョン)がロシア公使館に「国内亡命」するが、これを「俄館播遷」とさげすんだのも日帝だった。この点に関しては盧武鉉政権時代に作られ左偏向批判を受けた「近現代史教科書」や朴槿恵(パク・クネ)政権時代に作られた「ニューライト国定教科書」試案でも同様だ。「光復節」の「光復」とは、「以前に存在した国を取り戻すこと」を意味する。これに対し「建国」は「なかった国を建てる」という意味だ。建国と光復は意味上衝突する。したがってわれわれが光復節を最高の祝日として重視する限り、保守陣営と進歩陣営から出るどのような建国節の主張も廃棄されるのが正しい。
「光復」が前提にしているその以前の国は言うまでもなく「大韓帝国」だ。大韓帝国はわれわれの歴史上初の近代民族国家であり、当初から名実ともに「民国」として建国された。これに対する学界の研究も十分に蓄積されている。大韓帝国期にすでに「大韓民国」とも呼ばれた。「植民地フレーム」に目がくらんだ子孫だけがわからないだけだ。そのため3・1運動直後に上海臨時政府が作られた時に抗日独立運動志士が大韓帝国を継承するという意向を明確に明らかにしたのだ。