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【コラム】親パクの罪、記者の罪

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2016.12.16 10:04
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「君も崔順実(チェ・スンシル)を知らなかったのか。」

友人達から最もよく言われることだ。20年も新聞社に勤めたのに、政治部記者なのに、なぜ知らなかったのかということだ。

 
政治部に初めての辞令を受けたのは入社2年目の1997年12月だった。15代大統領選挙を目前にした時だった。10日間ハンナラ党の李会昌(イ・フェチャン)候補だけに付いて回り、初めて自分の名前を掲げて書いた記事が「朴槿恵(パク・クネ)氏入党会見」だった。「ハンナラ党に入党した朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の長女槿恵氏が11日午前、党事務所で記者会見を開き李会昌候補支持の弁を明らかにした…」と始まる記事で朴大統領は「クリーンな政治を経済原理とつなげて経済復興を成し遂げることができる人はこの候補だけだと考える」という所感を明らかにした。

翌年4月、朴大統領は達成補欠選挙で勝利した。弾劾訴追で大統領職務が停止するまでの政治経歴18年、筆者もそのほとんどを政治部の記者として過ごした。

2006年に朴大統領がソウル市長選挙支援遊説中に襲撃された時、筆者は新村(シンチョン)セブランス病院で夜を明かして取材した。2007年のハンナラ党大統領選候補選挙戦の時は宿敵だった李明博(イ・ミョンバク、MB)前大統領の担当記者として朴大統領を遠くから観察した。

保守勢力が熱狂する朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の長女、もう負けが決まったという選挙も勝利にひっくり返してしまう選挙の女王、ベールに包まれた私生活や過去まで混ざり合い、政治家朴槿恵は大衆にとって神秘と驚異、そのものだった。

政治部記者ならそうあるべきではなかったが、筆者の目も大衆同様だった。2006年に襲撃された時は「襲われた瞬間から手術台に昇るまで一寸も揺らがない姿を見せた」「血が流れる傷の部分を手で押さえて参謀に初めてかけた言葉が『犯人は捕まったのですか』だった」という記事を書いた。今は読むのもきまり悪いが、当時ハンナラ党の出入り記者達は朴大統領の非凡な姿を先に伝えようと競争していた。朴大統領との単独面談は記者にとって勲章のように見なされた。「随行秘書について江南(カンナム)の某ホテルの迷路のような通路を通り、ビジネスルームに入ったところ朴代表が待っていた。しばらくの間、単独で話を交わした」という先輩たちの武勇談を率直にうらやましく思った。

2007年には崔順実の実体が世の中に露呈する機会もあった。しかし、「朴槿恵-崔太敏(チェ・テミン)・崔順実」のコネクションを追跡して「MBが大統領になることより朴槿恵が大統領にならないことの方が重要だ」と話していたMB参謀の鄭斗彦(チョン・ドゥオン)議員の話を聞いても当時は「ホラが混ざっている」と考えた。結局過去18年間、崔順実どころか朴大統領の実体さえ正しく知らせることができなかった。筆者はその無能さと怠慢が限りなく恥ずかしい。

セヌリ党取材チーム長で親パク系の核心の行動を見守るのは本当に一日一日が苦役だ。弾劾訴追案議決以降、より一層理性を失っていく姿に今は言葉もない。彼らより私が先に謝るべきだという考えに恥知らずな反省文を書く。

ソ・スンウク政治部次長

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