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【コラム】美しい人は跡を濁さず=韓国(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2016.12.01 16:47
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ニクソンは引き受けた仕事に最善を尽くす誠実な政治家だった。40歳の若さで副大統領に抜てきされたのは、そのような熱心さが党内で良い評判を形成したからだ。しかしいつも悩んでいる暗い表情であるうえ、他人と親しく交流する姿はあまりなかったという。秀才だったが非常に貧しかったため地元のウィッティア大学に行くしかなかった家庭の環境が、非主流コンプレックス、被害妄想につながったという分析が多い。その後、デューク大ロースクールを卒業したが、デューク大では透明人間扱いだったという。10年ほど前、デューク大でニクソンをはじめとする米国大統領について1年間勉強する機会があったが、その点が気になった。大統領を輩出した東部の他の名門大とは違い、デューク大にはニクソンの名前にちなんだ記念館どころか、彼の名前に触れたパンフレットが一つもなかった。高齢の教授に尋ねたところ「同窓であることが恥かしい」と答えた。「同窓の名簿から抜いた」という話も出てきた。

その頃、朴槿恵(パク・クネ)議員の三成洞(サムソンドン)の自宅を訪問したことがあるが、何か重くて暗い雰囲気が印象的だった。家の中の全体が朴正熙(パク・ジョンヒ)大統領と陸英修(ユク・ヨンス)夫人の写真、絵など遺品で覆われ、明るい住居というよりも朴正熙記念館という雰囲気だった。一言でいうと1970年代に留まっているようで、父との対話時間が多いのだろうという気がした。雑草のニクソンとは正反対の成長期を送ったが、朴大統領の本やインタビューでは、成人になった後の「幸せだった瞬間」に関する記録を探すのが難しい。朴大統領の日記を綴った『平凡な家庭で生まれていれば』には「やりがいと苦痛を秤にかける時、私の秤ではやりがいが苦痛を相殺できない」と書かれている。実際、明の最後の皇帝・崇禎帝も煤山で首をつる前、自分の娘に「お前が皇家に生まれていなければ」という言葉を残した。

 
ウォーターゲートの場合、事件自体はそれほど大したことではなかった。米国国民の怒りを招いたのは、検察の捜査を妨害して事件を隠そうとした大統領の収拾の態度だった。事件発生から2年間、ニクソンは妨害・懐柔・隠蔽・更迭・とぼけ・嘘など、あらゆることをした。最後に辞任は赦免の約束と交換した。このような過程のため「不動の最悪大統領」となった。人の価値は出てくる時よりも退く時によく表れるという言葉は米国でも変わらないようだ。拒否し、否認し、弁解し、残命にこだわりながら崩れて壊れ、大学の同窓からも避けられるニクソンだ。もちろんニクソンは表では平然を装っていた。しかし側近には「理解できない。私がいったい何の過ちを犯したというのか」と泣き叫んだという。


【コラム】美しい人は跡を濁さず=韓国(2)

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