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【コラム】朴正熙時代、科学はドラマだった(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.10.30 12:06
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呉源哲(オ・ウォンチョル)氏は後ろに立っていた。10・26「朴正熙(パク・ジョンヒ)大統領逝去」35周忌の追悼式だ。26日、ソウル銅雀洞の国立墓地の行事。追悼の辞は朴正熙大統領の政治功績を称えた。「後進国の韓国を重化学工業の先進国産業形態に構築し、防衛産業を育成した」(キム・ホンレ星友会会長)という部分もある。

その分野の核心参謀は当時の青瓦台(チョンワデ、大統領府)経済第2首席秘書官、呉源哲氏だ。彼に35周忌の感想を尋ねた。彼は「わが家はこの近所なのでよくここに来る」と言った。控えた答弁だ。余韻は長い。その言葉の中に朴正熙時代が溶け込んでいる。

 
その時代、科学はドラマだ。科学と愛国が結ばれた。その意気投合は劇的な歴史を作る。ドラマの開始は海外人材のスカウトだ。テーマは自主国防と技術自立。朴正熙は帰国要請の手紙を自ら書いた。対象者の数人はノーベル賞候補者だ。自主は科学の感受性を刺激した。自立は愛国の情熱を吹き込んだ。

キム・ワンヒ博士(1926-2011)は韓国電子産業の先駆者だ。彼は1967年、単独で帰国した。米国に家族を残した。大統領の手紙は細心だった。「母国生活が外国生活をするようで不便が多い…」。大統領と科学者の間の手紙は12年間で130通ほどだ。

科学ドラマは劇的な要素を持つ。誘導弾の開発はあふれる緊迫感だ。無から有を作る挑戦だった。1978年9月、「白熊」誘導弾の発射が成功した。韓国の誘導弾時代が開かれた。「その歴史的な瞬間、私たち研究員はお互い抱き合って泣いた」(ホン・ジェハク元韓国航空宇宙研究所長)

ドラマは1級秘史を持つ。核兵器づくりだ。呉源哲氏はその秘密を守った。老年の彼の記憶力は非常だ。しかし彼は全貌を語らない。「核兵器開発の技術力が進捗した」と言うにとどめる。1970年代後半、韓米間の葛藤は激しかった。その裏に核があった。米国は朴正熙の核への執念の阻止に注力した。朴正熙時代の終焉の片方に核開発がある。

科学技術は指導力の空間だ。核兵器、ミサイル、人工衛星はリーダーシップが生産する。それは指導者の意志と国家の力の集合体だ。7月、北朝鮮軍の軍需担当書記だった全秉浩(チョン・ビョンホ)が死亡した(88歳)。葬儀委員長は北朝鮮指導者の金正恩(キム・ジョンウン)、国葬だった。朝鮮中央テレビは全秉浩をこう紹介した。「わが祖国を人工地球衛星製作および発射国、核保有国に転変させるのに突出した貢献をした」。


【コラム】朴正熙時代、科学はドラマだった(2)

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