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韓国プロレス、ファン熱狂・韓日戦で60~70年代に人気爆発、今は…

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版2014.09.09 14:33
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韓国プロレスの発祥地は釜山(プサン)国際総合体育館だ。1950年代後半、ここのレスリング師範だったチャン・ヨンチョル(1928~2006)は、日本で活躍した力道山(1924~63)にプロレス選手を夢見て、独学で技術を習得した。テコンドー師範出身のチョン・ギュドク(82)がチャン・ヨンチョルの道場に入ってきて60年代初めに釜山で一緒にレスリング試合を行った。64年、東洋放送(現JTBC)の開局記念としてレスリング試合を中継した。

キム・イル(1929~2006)は57年、日本で力道山体育館の門下生第1期生となり60年代初めに日本・世界チャンピオンのタイトルをさらった。彼は力道山が刺殺されてから2年後の65年12月に韓国に戻った。朝鮮ホテルで開かれた帰国の記者会見に全マスコミが集まった。この時から頭突きのキム・イル、カラテチョップのチョン・ギュドク、ドロップキックのチャン・ヨンチョルに代表される韓国プロレス伝説が始まった。

 
プロレスは主な選手たちが持つ独特の個性と多様な攻撃技術で人気を独占した。日帝強制占領期間と米軍政時代を体験した韓国国民は、日本選手を殴り倒して米国選手と対等にたたかう韓国選手に熱狂した。当時の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領もファンだった。韓日戦が着実に行われていた背景だ。ソウルの奨忠(チャンチュン)体育館は韓国プロレスの「メッカ」になった。試合は連日8500席の観覧席がぎっしりと埋まった。ある外国選手がキム・イルに「明日夕方、7分以内に骨抜きにして病院に送る」と脅しをかけたのが日刊紙に特大見出しで出た時期だった。

プロレスはチャン・ヨンチョルの「ショー」発言で一時、危機を迎えた。65年11月28日。5カ国親善プロレス試合でチャン・ヨンチョルが日本の大熊元司の腰の関節技に悲鳴をあげると彼の弟子10人がリングに乱入して瓶などで大熊を殴りまくった。事件は警察捜査まで広がり、チャン・ヨンチョルは「プロレスは事前に勝敗を決めているショー」だと述べた。プロレス熱に冷水を浴びせる悪材料だった。だがテレビ販売の爆発的な増加とともにプロレス中継視聴は最高の国民娯楽になった。70年代中盤、キム・イルとアントニオ猪木(71、日本の参議院議員)の対決にが全国民がテレビの前に集まって座った。

しかし80年代初期からプロレスはプロ野球・サッカー・シルムの人気に押されて次第に座を失っていった。77年にデビューしたキム・イルの弟子イ・ワンピョ(60)は「83年頃からテレビ中継がほとんど無くなった」と覚えている。84年に人気復活を狙ってチョン・ギュドク、キム・グァンシクらが出場する極東ヘビー級大会を開いたが、かつての勢いを取り戻すことはできなかった。日本の「反則王」らに悔しい思いをさせられて最後に試合をひっくり返すという似たようなパターン試合、第1世代スターの後に続く新進育成の失敗、娯楽性に優れた米国プロレスの人気など没落の理由は多様だった。その結果、激闘スポーツの中でもUFCなどの異種格闘技に押されて冷や飯を食わされる境遇になった。

現在、韓国で活動中のプロレスラーは40人前後。選手の大部分は別に生計手段を持っている。番組出演・ホテル管理・飲食店のモデルなど仕事の種類は色々だ。毎年一度、高陽市(コヤンシ)で主催する大会があり、たびたび非正規の大会が開かれる。10月にはキム・イル8周忌を迎えて彼の故郷である全羅南道高興(チョンラナムド・コフン)で国際大会が開かれる。イ・ワンピョは「大会の入場収入を通じてプロレスが自立できる道をつくることが急務」だと話した。(中央SUNDAY第391号)

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