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中国に輸出提案受けるまでになった韓国の水族館…「最初は日本を見よう見まねだった」(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.05.26 13:58
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「水槽に水がいっぱいにあふれてなければいけないのに…」。

1990年夏、ソウル・汝矣島(ヨイド)の63ビル水族館。出勤してみるとアマゾンから空輸してきた1メートルを超える世界最大の淡水熱帯魚のピラルクが水槽の底に横たわり大きなえらをばたつかせている光景が目に入ってきた。63シーワールド入社3年目のキム・ギテさんは絶望した。水槽とつながるバルブが緩く、夜中に水がすべて抜けてしまったのだった。しかも体長1~2メートルのピラルクは1頭当たり3000万ウォンを超える。死んだりすることがあれば「おしまいだ」と考えたキムさんはすぐに水槽に水を満たした。

 
それから25年が過ぎた2014年5月。失敗だらけのキムさんは51歳の「水族館のベテラン」になった。通った会社はこれまでの新東亜グループからハンファホテル&リゾートに変わった。人々は彼を「水族館の大物」と呼ぶ。韓国で有名な水族館はすべて彼の手を経て誕生したためだ。それだけではない。彼は水族館の中国輸出を目前に控えている。韓国では初めてのことだ。21日に63ビルアクアリウムでチーム長を務めるキム・ギテさんと会った。

彼が小さい水槽を示した。手の平ほどの大きさのディスカスが悠然と泳いでいる。「明かりによって体の色が変わる魚です。観覧するお客さんは魚ばかり見るが、私の立場ではちょっと空しい時が多いです」。彼が空しくさせる理由はこうだ。魚にえさを与え世話する「アクアリスト」とは違い、彼がするのは水族館の魚がうまく暮らせる環境を作り、これを観覧客が「よく見られるように」設計することだ。簡単に言えば観覧客の動線を計画し水槽配置をするなど、水族館を「設計」することが彼の業務だ。こうしてみると小さな水槽の中にある水草ひとつ、石ひとつがすべて彼には意味がある。彼はディスカスの水槽の壁にびっしりと張り付いている巻貝を示した。「巻貝の幼生がふ化して壁についているものです。とてもかわいらしいでしょう? こういうものを見ないで『たいしたことない』と言って通り過ぎていくお客さんがいる時がいちばん残念です。

最初から水族館設計の仕事をしたのではなかった。江原(カンウォン)大学三陟(サムチョク)キャンパス電気工学科を卒業し小さな会社に通った。そうするうちに1988年に63シーワールドでスタッフを採用するという話を聞き、入社願書を出したことで水族館が一生の仕事場になった。1985年に韓国で初めてオープンした63シーワールドは日本の水族館の技術をそのまま持ち込み、魚の名前からすべてが「日本語」になっていた。魚の特性に合わせて水温を調整し、水を循環させ、魚に合わせて照明を合わせる仕事をすべきだが、知っていることはひとつもなかった。『水産通論』『養殖学概論』のような教材を買ってやみくもに読み始めた。日本の書籍を入手すれば同僚と分けて翻訳した上で勉強もした。時間を作ってダイビングの資格も取った。飼育係らとともに水槽に入らなくては仕事をまともにできなかったためだ。


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    2014.05.26 13:58
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    韓国最高の水族館専門家に挙げられる63アクアリウムのキム・ギテさんは中国への「水族館輸出」を目前に控えている。キムさんが63シーワールドのペンギン展示館の前で笑っている。(写真=ハンファホテル&リゾート)
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