【コラム】統一が「大当たり」になるには=韓国(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.01.17 10:37
私たちはヴィリー・ブラントの東方政策だけがドイツ統一を持ってきたと誤解してきた。ブラントの東方政策が統一過程で一つの大きい分岐点ではあるが統一の全体の図を見れば統一は1949年西ドイツ政府樹立から89年ベルリンの壁崩壊までの長い旅程だった。初代総理コンラート・アデナウアーが主導したドイツ連邦共和国(西ドイツ)憲法を「基本法(Grundgesetz)」と呼んだのも「憲法(Verfassung)」という名称にともなう分断固定化の暗示を避けようとの趣旨であった。アデナウアーの後に続いた総理5人の誰も建国以来の統一ビジョンから抜け出さなかった。陸上のリレー(Relay)にたとえると、最初の走者から最後の走者まで同じコースを走ったのだ。
私たちに見えていなかったものが他にもある。西ドイツは統一の基礎を下から(From blow)着実に固めた事実だ。70年代から西ドイツ政府は根気よく東ドイツとの市民・学生交流を推進した。初め、東ドイツの反応が冷淡でもあきらめなかった。ついに東ドイツが少しずつ反応を示し82年には西ドイツ学生5000人が東ドイツを、東ドイツ学生1250人が西ドイツを訪問した。彼らは民宿を通じてお互いを肌で感じて理解することになった。83年に東ドイツを訪問した西ドイツの学生が1万3000人もなるとすぐに危機を感じた東ドイツが学生交流を中断し、2年後に再開して統一される時まで続く。同時に88年まで50個以上の東・西ドイツ都市が姉妹関係網に編入され、西ドイツの地方自治体が東ドイツの姉妹都市の住民たちの生活を実質的に支援した。細かい市民社会の連結網は人体のすみずみまで血を供給する毛細血管にたとえて毛細管(Capillary)方式と呼ばれた。