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<五輪>「スポーツ5大強国」になった韓国、ロンドンでの成果は?

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2012.08.13 10:57
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オリンピック(五輪)デビュー舞台だった1948年ロンドン大会で、韓国は重量挙げのキム・ソンジプ、ボクシングのハン・スアンと2人の銅メダリストを輩出した。植民地時代にスポーツを慰安、自負心と考えた国民はこの結果を惨敗と認識した。

しかし世界の壁は非常に高く、韓国スポーツは井の中の蛙だった。8強入りの快挙を成し遂げた男子バスケットが大会前に「外国の長身選手には勝てないから出場をあきらめろ」という圧力を受けたのは一つの例だ。

56年メルボルン五輪まで韓国は計6個のメダルを獲得した。重量挙げとボクシングでメダルが出た。この2種目では日帝強制支配期から韓国選手が頭角を現した。「階級競技」というメリットもあった。大韓体育会副会長を務めたイム・ボンジャン建国大教授は「階級競技は身体的ハンディキャップが相対的に少なく、ハングリー精神が重要だ。このため開発途上国の選手も競争できる種目」と評価した。韓国経済の初期輸出商品が低賃金・低付加価値のかつら・繊維・合板などに集中したのと似ている。

階級競技の優位は続いた。64年東京五輪ではレスリングと正式種目に初めて採択された柔道で初のメダルが生まれた。両種目とも階級競技だ。76年モントリオールでヤン・ジョンモが韓国初の五輪金メダルを獲得した種目もレスリングだった。この大会で女子バレーボールが獲得した銅メダルが、当時まで唯一の「非階級競技メダル」だった。

第3、4共和国の体育政策の特徴は官主導だった。政治家が競技団体長を務め、学校教育で体育が強調された。224人の選手を派遣しながらも銀メダル2個、銅メダル1個に終わった64年の「東京ショック」後、泰陵(テルン)選手村が建設された。第5共和国に入った後には官民合作の形になった。81年に西ドイツのバーデンバーデンでソウル五輪誘致が確定した後、政府は体育部を新設し、大手企業にアマチュア協会支援を任せた。

支援の第1基準は「メダルの可能性」だった。投資は成果を出した。84年ロサンゼルス五輪で韓国は総合順位10位(金6・銀6・銅7)に入り、国際スポーツの強豪に定着した。その後3回の五輪で「初メダル」が出てきた種目はアーチェリー・ハンドボール・バスケット(1984)、卓球・ホッケー・射撃・体操(1988)、バドミントン・陸上(1992)だった。このうちアーチェリーとハンドボールは72年に正式種目に再採択され、卓球とバドミントンは88年と92年に初めて採択された。すべて新規進入の障壁が低い‘隙間市場’だった。

そして変化が起きた。2000年シドニー大会でフェンシングのキム・ヨンホ(金)とイ・サンギ(銅)がメダリストになり、2012年ロンドンの栄光を予告した。08年には朴泰桓(パク・テファン)が「絶対不可能」という偏見を破り、水泳で金メダルと銀メダルを獲得した。2012年に梁鶴善(ヤン・ハクソン)が優勝した体操は、五輪元年(1896年)に採択された由緒ある種目だ。

ソン・ミンソク大韓オリンオアン協会事務局長は「すべてのメダルが貴重だが、伝統ある種目のメダリストがより尊敬されるのが国際体育界の情緒」と話す。元年9種目のうち韓国は7種目(レスリング・陸上・射撃・重量挙げ・フェンシング・水泳・体操)で五輪の頂点に立った。このうち6種目は92年以降、3種目は00年以降に初めて金メダルが出てきた。

ソ・ボムソク大韓フェンシング協会技術理事(50)はフェンシングの活躍について「協会の支援の下、90年代後半から本格的に国際大会に参加し、世界フェンシングを知り始めた。フルーレを基本種目とする日本式の練習システムから抜け出し、スピードと速いステップに基づいた韓国式フェンシングの概念もつかんでいった」と述べた。

企業家精神で武装した積極的かつ合理的な支援、「韓国式モデル」の開発が、韓国スポーツが伝統の強者が掌握する種目でも勝てる理由だ。イム教授は「適切なシステムが整えば、韓国選手はどんな種目でも競争できるということが立証された」と話す。今までの原動力は選手および指導者の大変な努力、国と企業の支援だ。

イム教授はもう一つの「力の源泉」を見いだすべきだと強調する。イム教授は「今の国民は五輪の結果に劣らず過程を重視する。スポーツを知っているからだ。国民の40%が生活体育を経験したという統計がある」とし「生活体育とエリートスポーツが有機的に結合する時、韓国は本当のスポーツ強国になるだろう」と述べた。

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