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【コラム】女性タレント動画事件…誰がもっと淫らなのか

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2011.12.08 16:12
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1920-30年代の韓国小説で、女性の人物の性的欲望が表れる場合は大きく2つある。 すなわち「新女性」と呼ばれた知識人女性と下層階級女性のセクシュアリティーがそれだ。 彼女たちのセクシュアリティーは結婚・出産などと関係がない欲望だったため、だらしなく淫らなものだと罵倒された。 当代は女性が処女性や母性性から抜け出したセクシュアリティーを持つことが許されなかったのだ(イ・ヘリョン著、『韓国近代小説とセクシュアリティー叙事学』、ソミョン出版、2007)。

特に新女性の性的自由と欲望は、生計や無知、自然的生活などと関連した下層階級のそれよりも、はるかに危険で悪いものとして扱われた。 例えば金東仁(キム・ドンイン)の「カムジャ」や李孝石(イ・ヒョソク)の「粉女」のような作品に登場するボクニョ、ブンニョは、生活苦のためやむを得ず自分の体を売る存在として描かれる。 一方、廉想渉(ヨム・サンソプ)の「除夜」や羅稲香(ナ・ドヒャン)の「黜学」のような作品に登場するチョンイン、ヨンスクなの「新女性」の自由恋愛は放縦、堕落として扱われる。 このため結局、チョンイン、ヨンスクは自らの罪を懺悔する手紙を残して自殺を決心する。

 
こうした叙事構造は当代の社会が女性に対して持つ視点を表している。 女性が結婚や出産から自由な性的欲望を表すことは穏当でないと考えたため、彼女たちは作品の中で懺悔、自殺という叙事で‘処罰’を受けなければならなかったのだ。 しかし「除夜」では女主人公チョンインが自殺する前、当代の社会の偏見に対する新女性の抗弁を表したりもした。

「いったい石を投げるのは誰なのか。何が罪なのか。 堕落? それは自由恋愛を渇望する幼い女性にだけかぶせる絞首台上の死刑囚の頭巾のことなのか。 しかし、いわゆる世道人心を慨嘆するという人はどうか。作妾は離婚防止という名目で、芸妓は実業家の社交、志士の慰安、三文文士の人間学研究、芸術家の耽美という美名のもとで、非道は正道になり、堕落は社会の政策、事業の手段、学問の好材料になるのではないのか。 しかし最も恐ろしいのは、人間性の根本的な堕落であることを、彼らは知る由もない」。

今日でも依然として、韓国社会は性問題において男性より女性に厳格な評価基準を持つ。 最近の、ある有名女性の私生活動画流出事件でも同じだ。 多くの人がそのスキャンダルの主人公女性に対する末梢的好奇心で‘のぞき’欲望を満たそうとしている。 それと同時に一方ではその女性を‘淫ら’だと責める。 しかし彼女が誰であれ、どんな方式で性的欲望を見せようと、それに対して私たちが非難する資格があるのだろうか。他人の隠密な私生活をのぞき見ようとする人たちのほうがはるかに‘淫ら’な性意識を持っているのではないのか。

イ・ヨンア明知大教授

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