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5・16クーデター50周年:金鍾泌氏インタビュー(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2011.05.16 17:27
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インタビューの席に座るやいなや、休む間もなく5・16の話をした。金鍾泌元総理はジャンパーを着た姿で気楽に話を続けた。金元総理の左右には古いソファがあり、向かい側の壁の上に「笑而不答」(笑いで返事の代わりをする)と書かれた額縁が掛かっている。

#クーデターかレボリューションか

 
--中央日報が今年、韓国史科目を必修とする運動を行っている。4・19革命と李承晩大統領の歴史的な和解も提案した。

「国史教育がなくなってから、また復活させたのは評価できる。歴史をありのままに表現せず、悪く表現してこそ自分の都合によいと考える人たちがいる。そういう人たちがわが国の歴史を歪曲させている」

--4・19革命当事、朴正煕少将は釜山(プサン)地域の戒厳司令官だった。1960年4月24日、釜山で合同慰霊祭が開かれたが、朴正煕少将が弔辞を読んだ。「皆さんの永訣は自由のための私たちとの誇らしい結縁です」と述べた。

「5・16革命の主旨文で4・19の精神を継承するといった。4・19は革命だが、それを継承した5・16はクーデターとはおかしくはないか。主旨文は私が書いた。こういう話は今まで一切しなかった」

--エジプトのナセル、トルコのケマル・パシャ、ビルマ(ミャンマー)のネウィンなど新生国の軍事革命を参考にしたという。最も強烈な印象を与えたロールモデルは誰か。

「ナセルだ。時間的にそれほど経っていなかったし(エジプト革命は1952年)、ナセルがともに革命を起こしたナギブを抑えて大統領になる過程を詳しく調べた」

--ナセルとナギブの関係が興味深い。

「5・16が成功したずっと後のことだが、それと関係したことがあった。私の家の四方を中央情報部が監視した(朴正煕大統領が金元総理を牽制したという意味)。私は耐え兼ねて青瓦台に行き、朴大統領に不平を言った。『私がナセルですか。何を監視するのですか』。私があなたの地位を狙うと思うのか、こういうことをナセルを引用して表現した。すると朴大統領はしばらく目を閉じて何も言わなかったが、照れくさそうな表情で『その可能性もあるだろう…』と話した。私はその場面を忘れない」

--権力の冷酷さだ。

「私は一貫してそれ以上の欲は出さず、支援した。中央情報部長を引き受けたのも私の他にそういうことをする人がいないので、いろいろ批判の声を浴びながらした。私もただ最高委員をして気楽に過ごせた。 革命を後押ししたのだ。 始終一貫」

--今でも若く見えるが、当時が30歳代だった。

「35歳だった」

--その年齢でどうやって歴史の変化を企てたのか…。

「今でも変わっていないが、人の助けを必要とせず安らかに暮らせる国を作ることしかない。62年に米国に渡った当時、ロバート・ケネディに会った。 キューバ事件が10月22日だが、第3次世界大戦が起こるかどうかというその日だ。 ケネディ大統領が安保会議を主宰するからといって、弟のロバート・ケネディ司法長官に会えと言ったのだ。 司法長官室で会った。 ところがこの人が自分の机の引き出しに両足を上げて私を見ながら話した最初の言葉が『来た目的は何か』だった。 私は腹が立ち、こんな無礼なことがあるか、私は小さな国の者だが、足を上げて見下ろして何をしに来たのかとはどういうことか、 きっと私を試しているのだろう、と思った。 何と言えば短い言葉で良い返答になるか。 立ち上がって『ここ来たのはあなたたちが来いといったから来た。 なぜ革命をしたのかと質問されると理解している。 よくその質問をしてくれた。 大韓民国がアメリカ合衆国の荷物にならない国を作ってみたかった』と話した。 そういうとにっこりと笑って足を下ろし、手で引き出しを入れた。 そして向こうから本を持ってきたのは、自分が書いた本だった。 私の名前のスペリングを尋ねて、親愛なるJP Kimと書くと、これで許してほしいと。そして死ぬまで(68年)親しく付き合い、韓国に2度来た」

#朴正煕の権力意志

--5・16を成功させた背景には朴正煕元大統領と金鍾泌元総理の国家改造のための権力意志があるためではないのか。

「朴正煕大統領が亡くなり、私がどう考えたか分かるか。朴大統領の救国の基礎になったものは維新だった。 維新体制を作り、非難を浴びても強行して70年代に重化学工業化の基盤まで固めなければいけない、そして維新をした。 朴大統領が亡くなってから、維新体制もなくなった。80年代の大統領は維新体制を継承する世代ではなく、民主化をする勢力でなければいけないと考えた。 それで憲法を変えようと言った。 結果的にはだめだった。 崔圭夏(チェ・ギュハ)元大統領とその後ろにいた申鉉ファク(シン・ヒョンファク)元総理の協調があればよかったのだが…」

--5・16当時、朴正煕少将の魅力、リーダーシップはどういうものだったのか。

「私は一時、朴大統領を左翼ではないかと疑ったことがある。 韓国戦争(1950-53)が起きてから疑いは解けた。 当時、朴大統領が共産主義者なら漢江を越えず、そうでなければ漢江を越えるだろうと考えた。 水原(スウォン)に到着すると、そこにいた。 それで疑いが完全に消えた。 しかしCIAソウル支部長のシルバーは5・16当時にも朴正煕少将を共産主義者と疑っていた」

#参加者全員が貢献

--革命を構想した将校は朴正煕のどんな点に引かれたのか。

 「剛直、清廉だ。 整軍運動が革命に発展したが、その時、将軍はすべて腐敗していた。 朴正煕は志のある将校たちの尊敬を受けていた。 この人しかいない。 そういう考えが広まっていた。 当時、私が(朴正煕の)めいを(妻として)迎える前だ。

--清廉と剛直。

「そのうえ有能だ。1949年に総合敵情報告書というものを作ったが、それを見て朴正煕が北側が近く攻めてくると話した。 攻撃準備の第1段階ができたため攻めてくると言ったが、まさにその通りだった。 韓国戦争の時、朴大統領が6カ月前に予想した侵入経路をそのまま南下してきた」

--最も貢献したのは誰か。 キム・ユングン海兵旅団長、パク・チオク空輸団長ら実兵力指揮者の功績の順序は。

 「そういうものはない。 みんな純粋な考えでした。 みんなが貢献した」

金鍾泌元総理は5・16の前日、家を出ながら妻・朴栄玉(パク・ヨンオク)氏に「もう会えなくなるかもしれない」と話したという。 「生きて戻れるという考えを抱くようになったのはいつか」と尋ねると、金鍾泌氏は「5月19日にマグルーダー米第8軍司令官に会ってから」と答えた。 米軍の作戦指揮権が侵害されたというマグルーダー司令官に対し、金元総理は「では革命をする時に兵力を出動させますと言って革命をするのか」と話したという。 この談判が米国側から5・16主体勢力の存在を認められる韓米共同声明が出る契機になったということだ。

金元総理は61年2月15日、整軍運動をして服を脱いだが、5月16日付で中佐に復帰した。 准将として予備役に入ったのは翌年、民主共和党を創党する時だ。 革命を話す金元総理の目には青年のような輝きがあった。 金元総理は「私たちは純粋だった。 あれこれと不必要に説明することがなかった」と話した時は手を強く握り締めた。 「革命をしよう、すべて叩き潰そう」と話せば、相手はすぐに合流したということだ。

インタビューの後、金元総理は歩行運動のために家を出た。 金元総理は08年12月15日に脳卒中で倒れた後、超人的なリハビリ運動を通して回復した。


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    若い頃の金鍾泌元総理。 1952年に長女イェリを抱いて妻朴栄玉氏と家族写真を撮影した。
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