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【噴水台】コラテラル・ダメージ

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2010.11.28 12:02
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時速100キロメートルで疾走する機関車を走らせているときに突然ブレーキが故障したと考えてみよう。線路には作業員5人が、右側の線路には1人がいる。選択はハンドルを切るか、そのまま行くかの2つに1つだ。大部分の人々は5人を殺すことより1人を殺すほうがより良いという判断を下すことになる。ところで1人の命は5人の命より相対的に尊くないのか。5人を生かすために1人を殺す決定を道徳的といえるだろうか。ハーバード大のマイケル・サンデル教授のベストセラー『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』に出てくる「トロッコ問題(trolley problem)」だ。

トロッコ問題は、「大のためならば小を犠牲にしても良い」という論理を思い出させる。実際に人々にはそれらしい大義名分があるならば、その過程で派生する否定的現象はある程度甘受すべきだと考える心理があるという。この主張は数字が大きくなればさらにもっともらしくなる。米国の軍事用語の「コラテラル・ダメージ(collateral damage)」が良い例だ。大規模軍事攻撃にともなう民間人被害を意味する言葉だ。意図しなかった犠牲、付随的被害などと翻訳される。

 
この用語は米国政府が1970年代のベトナム戦争で広がった民間人殺傷行為を説明しながら広く使われることになった。一種の婉曲語法だ。ブッシュ政権はイラク戦争でともすればこの用語を使い非難を浴びた。ノーム・チョムスキーやハワード・ジンのような進歩知識人らは、「非人道的殺傷行為をごまかす言葉遊び」と非難した。韓国もこうした言葉遊びにやられた不快な記憶がある。最近「小さな泉」という映画も作られた老斤里(ノグンリ)事件だ。韓国戦争当時に米軍が韓国の良民300人余りを抹殺した事件だ。「避難民の中に北朝鮮軍が隠れているかもしれず銃撃を加えて起きた偶発的悲劇」という彼らの弁解は本当におそまつだった。

北朝鮮による延坪島(ヨンピョンド)挑発で亡くなった民間人らに対し、「誤認砲撃」によるミスのようだという主張が提起された。軍施設と知って精密打撃したが関係のない民間人が死んだ、北朝鮮が意図しなかった被害というニュアンスだ。本質をくもらせる論点に違いない。あたかも当初から民間人を狙う意図がなければ罰が軽くなるとでもいうような錯覚すら感じさせるためだ。コラテラル・ダメージは選択行為での道徳的な堪え難さをどうにか避けるために加害者が作った免罪符に近い。まして加害者が黙っているのに、被害者が出てきて言うべきことはでないという話だ。

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