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船から見たみすぼらしい北朝鮮、清津は地獄の入口だった(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2010.11.21 09:53
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韓国は脱北者2万人時代を迎えている。脱北の流れの一方には在日同胞出身の脱北者がいる。今200人余りの脱北者が日本にいる。彼らを支援する在日本大韓民国民団に脱北者取材支援を要請し、イ・サンボンさん(仮名・65)と18日に東京で会った。彼は47年間にわたり脱出を考え準備した。映画「ショーシャンクの空に」をしのぐ忍耐だった。脱北理由は通常の脱北者とは違った。「お腹がすいたのでなく、自由を取り戻しにきた」と話した。苦労を重ねた彼の顔はしわだらけだった。「北に残った家族が心配だ」として仮名を要請した。

 
1960年5月、福井県。2人の朝鮮総連幹部がイ・サンボンさん(当時16才・高1)の家に来た。彼らは家族を集めてバラ色の宣伝を並べ立てた。

「子どもが多いが両親が老いていて教育費を出すのが大変だ。金日成(キム・イルソン)が指導する北に行け。帰国すれば老人は仕事をしない。冷蔵庫を開ければ肉と野菜があふれている。病院でもお金を取らない。教育費は無料で、うまくすれば欧州に留学に送ってくれる」。

当時65才の年齢で肉体労働者としてかろうじて生計を立てていた父親は乗り気になった。長屋2部屋を借り、1部屋は結婚した李さんの兄(当時27才)が使い、残りの4坪の部屋で両親と2男2女の兄弟の6人が暮らした。19才の姉は紡織工場に通い、母親(当時49才)はリヤカーを引っ張って古新聞を拾った。再婚した母親が連れてきた李さんの兄は履き物工場の従業員だった。それでも貧しい日本の人々がだれでも食べている“1日3食コメの飯”は夢にも思わずさつまいもを食べた。ブリキの屋根は雨漏りし、風が激しければ飛んで行った。

母親は北送に猛烈に反対した「韓国戦争が終わって7年で地上の楽園などと戯言か。当面は残り北に行かないほうが良い」とし、父親に「この人たちを追い出せ」と行った。両親は毎日けんかした。父親は母親に暴力も振るった。朝鮮総連の集中攻略に陥落した父親は7月に「帰国希望申込書」に印鑑を押したが、「1人で行け」と反発する母親に引き留められた。さらに2カ月後に朝鮮総連が「それでは妻を残して子どもたちだけ連れて行け」と言い出し、母親はあきらめた。

9月17日午前10時。李さん家族6人は兄だけ残して日本を離れた。荷物はなかった。 餞別金5万円と乗っていた自転車2台がすべて。親戚30人余りが相変らず「行くな」と言った。北送僑胞列車に乗せられて集合地の新潟港に向かうのに300人余りの民団の人々が汽車を阻み肉弾戦も展開された。北送僑胞は新潟センターに集まって5日間過ごした。日本人夫人たちが子どもを置いて逃げるのも続出した。そのたびに大騷ぎが起こった。やがて1800人とともにソ連の船「クラリオン」に乗り2泊3日で清津(チョンジン)近海に到着した。

午前11時。清津港はみすぼらしかった。母親が「みてごらんなさい」ととがめても父親は口を開けられなかった。紙で作った花を振る学生たちの裂けた履き物の間から足の指が飛び出していた。「間違った。逃げなければ」と考え始めた。

李さん家族は炭鉱行きだった。炭鉱には“不純分子”の越南家族や国軍捕虜らがいた。配置過程で山間の僻地に追い出されることになった神奈川出身の青年4人が幹部らと戦った。 次の日彼らは消えた。家族の夢はめちゃめちゃになった。頭に来て学校にも行かず、1ヶ月後に行ったら「金日成」という言葉をとても多く聞いた。

写真=北送される僑胞たちが集合した日赤新潟センター。18日に会ったイ・サンボンさん(仮名)は「地獄に向かう入口だった」と表現した。(民団提供)



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    北送される僑胞たちが集合した日赤新潟センター。イ・サンボンさん(仮名)は「地獄に向かう入口だった」と表現した。(写真=民団提供)
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