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【統一教長男インタビュー(5)】韓国系米国人ドクター・ムンと彼の母国語…<3>

ⓒ 中央日報日本語版2010.09.14 16:50
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 文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁は1970年代初め、米国に渡った。 文総裁が今年初め国内で出した自叙伝「平和を愛する世界人に」を読むと、「かろうじて戦争の飢えを逃れた東洋から来た韓国人が米国人の前で説教をするという見方と、統一教に対する圧力で私の米国生活は順調でなかった。 子どもたちが警護なしに学校に通うのが難しいほど逆風を受け、いま考えると胸が痛む」という部分がある。

自叙伝によると、国際共産主義者と関連した日本赤軍派の反発もひどく、文総裁が頻繁に滞在したボストン修練院に侵入し、FBIの検問で摘発されたりもした。 文総裁の試練は家族にそのまま広がるしかなかった。 幼時期の話を慎重に尋ねた。

 
--米国での幼年時期をどう過ごしたのか?

「(文顕進氏は今回の質問から英語で答え始めた)私たちの家族は幼い時から‘文鮮明の家族’という理由で過度な関心を受けながら育つしかなかった。 しかし自分の人生で直面したすべての圧力と挑戦は後悔するものや悲劇的なものではない。 むしろ人生を生きていくうえでチャレンジ精神を抱くようになった」

--もう少し具体的に話してほしい。

「1973年に私が初めて米国に来た当時、米国にはアジア人がそれほど多くなかった。 さらに米国はベトナム戦争中だった。 この戦争は1975年まで終わらなかった。 当然、米国社会は混乱していて、1980年代に韓国で激烈に学生運動が起きたように、米国でも学生運動が激しかった。 こうした状況でアジア人というのがどれほど劣悪な位置にあったかはすぐに想像できると思う」

--「文鮮明の家族」という理由だけでも難しいことが多かったのでは。

「おっしゃる通り平凡なものではなかった。 私の家庭に対して非常に大きな先入観が常に存在していた。 しかし私の家族はそのことを十分に理解し、甘受しなければならないと信じた」

文顕進(ムン・ヒョンジン)氏の回答は具体的ではなかった。 明るく笑いながらも、家族に関する話が出てくるとすぐに表情が硬くなった。 自己保護センサーが作動しているようだった。 透明な鉢の中の魚のように、文顕進氏は「文鮮明の息子」として常に人の注目を受けて育つしかなかった。 心を開くためには時間が必要だということを悟った。

シアトルで3日間単独取材…「月刊中央」朴美淑(パク・ミスク)記者


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