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【時視各角】「羅老号世代」のために(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2010.06.18 14:55
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 宇宙開発は夢を食べて育つ。 夢が宇宙開発の随一の滋養分だ。 夢は育つ過程で政治(権力)に振り回されたり、経済(お金)に見放されたりするものだが、だからといって落胆して中断すれば悪夢として終わるだけだ。 疲れずあきらめずに夢を見てこそ夢らしい夢だ。 夢は実を結ぶ。

糸川英夫(1912-1999)という日本の科学者がいる。 彼に夢を与えた人物は米国人チャールズ・リンドバーグだった。 1927年にリンドバーグが大西洋単独横断飛行に成功した時、糸川は中学生だった。 深い感動を受けた少年は「大人になれば自分の手で飛行機をつくる」と決心した。 高校卒業後、東京大学航空学科に入った。 大学を終え、中島飛行機(現富士重工業)に入社した時、軍国主義・日本は戦争中だった。 中島飛行機で糸川は才能を発揮した。 日本海軍に「ゼロ戦」があるなら、陸軍の戦闘機は「隼(はやぶさ)」だった。 1945年の敗戦まで主力機として使われた「隼」の設計者が糸川だ。 糸川は神風特攻隊に反対し、「人が乗らない無人戦闘機を開発しよう」と軍首脳部に建議したこともある。

 
敗戦後、東京大学工学部に帰ってきた糸川は医療機器の開発に没頭した。 脳波測定器と麻酔深度計を発明した。 その頃、米シカゴ大学で麻酔に関する講演をする機会があった。 講演を終えて大学医学部の図書館に立ち寄ったところ、「宇宙空間での人体変化」をテーマにした論文を目にした。 米国はもうすぐ宇宙時代に入るのだと直感した。 帰国後、ロケット開発に取り組んだ。 1955年、糸川は長さ23センチ、直径1.8センチ、重さ200グラムの小さなロケットの打ち上げに成功した。 固体燃料を使用した日本最初のロケットはその形から「ペンシル(鉛筆)」と名づけられた。 1970年、日本の最初の人工衛星(おおすみ)の打ち上げ成功も彼のおかげだ。 糸川が「日本ロケットの父」と呼ばれる理由だ。 糸川はチェロ演奏を楽しみ、高音が優れたバイオリンを自ら作った。62歳からはバレエにはまり、67歳に「ロミオとジュリエット」のモンタギュー伯爵役でデビューした多才多能な科学者だった。


【時視各角】「羅老号世代」のために(2)

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