【その時の今日】「日本語を使え」…日帝の韓国語抹殺政策が本格化
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2010.03.17 15:42
日本語がこの地で新しい知識を伝える学習言語として君臨し始めたのは、大韓帝国が終焉を告げた時期、統監府が小学校用の日本語読本と理工科科目の教科書を日本語で編纂しながらだ。 「韓国の幼年に日文教科書を慣れさせることは、子どもの脳髄に浸透させて、いわゆる日本魂というものを注入しようというものだ」。1906年6月6日付の大韓毎日新報がその底意に言及したように、当時すでに日帝は韓国の文字と言葉を教育の領域から排除し、この地の人々を帝国の支配に順応させようとしていた。
「普通教育は普通の知識機能を授け、特に国民たる性格を養成し、国語(日本語)を普及することを目的とする」。 1911年の朝鮮教育令に基づき、朝鮮語を除いたすべての科目の教科書は日本語で発行され、行政・法律関連の文書も日本語で作成されながら、国語の地位を奪われた朝鮮語は、日常でだけ使われる生活語に転落した。 しかし第3次改正教育令が公布された1938年までは朝鮮語が必修科目として残っていた。 その年の3月15日、日帝は植民地言語政策を朝鮮語併用から日本語常用、すなわち「国語常用」に変えた。 植民地の民族から言葉と文字を丸ごと奪い、‘完全な日本人’にしようとした皇民化政策の中核が、まさに日本語使用の強制だった。 「内鮮一体」を叫んだその時、日本語と日本史が必修科目に指定された半面、朝鮮語は正規教科目から除外された。