【時視各角】原発の受注、その後(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2010.01.21 10:43
しかし韓国原発の本当に競争力を知るには、その歴史を遡らなければならない。最大の分岐点は1986年だった。その年の記録的に低い国際石炭価格は、原発の経済性を根本から揺さぶった。4月には史上最悪のチェルノブイリ原発崩壊事故が発生した。当時、韓国はその激しい逆流の中を突き進んでいく決断をした。86年6月、米コンバッション・エンジニアリング社と共同で韓国型原子炉の開発に着手したのだ。
その間、国内研究陣の苦労は相当なものだった。しかし原子力の主役は言葉を控えている。「約束もなく米国の離れた島に渡って行った…」と話し出すものの、すぐに「すべて過ぎ去った話」と言って話をやめる。ただ、共通した証言は「最も大きいストレスは技術ではなかった」ということだ。特に90-95年が最も厳しかった。やめて行った同僚も少なくなかった。「当時、国政監査で原子力は常連だった。耐えがたいほど標的になった」「環境団体の目もつらかった」…。ようやく原発輸出までこぎつけた研究陣は今でも表に出て来ようとしない。長い間の習性のようだ。