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【その時の今日】独立運動の聖地、西大門刑務所

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2009.10.28 12:18
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72の残酷な拷問の悪名

 
帝国主義・日本が大韓帝国の軍隊を強制的に解散させた1907年。この地の人々の抵抗を恐れた統監府は「思想犯の指導に主眼を置いた近代的な監獄を着工した(重松一義「日本の監獄史」)。翌年10月、ソウル西大門区峴底洞(ソデムング・ヒョンジョドン)101番地に、数回にわたる改称にもかかわらず韓国人の頭の奥深く「西大門刑務所」として刻印されてしまった「京城(キョンソン)監獄」が設置された。「夏には囚人の呼吸と汗から出る蒸気で互いの顔を見分けられない。冬には監房に20人がいれば布団4枚を配るが、あごの下から膝の下までしかかけられないため、靴下を履いていない足と膝はほとんどの場合、しもやけになってしまう。耳と鼻は凍るというきわめて残酷なものであり、指や足指が腫れて障害者になった囚人も何人か見た」。1911年に「安明根(アン・ミョングン)事件」(安明根らが1910年12月、黄海道信川で武官学校の設立資金を募金する途中逮捕された事件)にかかわった疑いでここに収監された独立運動家、金九(キム・ク)はその時の酷い体験を「白凡日誌」に記述した。

それだけでなかった。「尋問を担当した日本の警察の第一声として“お前は強く血気あふれる奴で、新民会(1907年に韓国内で結成された秘密の抗日組織)のメンバーだ。キリスト教の信者であり、日本のことを“倭人、倭人”と呼び、日本の言うことなら何でも受け入れない奴であることはすべて知っている。お前は、いかなる厳しい刑を加えても不服に思うということも知っている”とし、手とこん棒でむやみに殴った」。

同年「105人事件」(1911年に日本の警察が民族運動を阻止するため新民会のメンバーら多数を逮捕、拷問した事件)で収監された鮮于燻(ソヌ・フン)の証言通り、当時の日本は、独立運動家の気概を破るため、残酷な拷問を行った。爪の間に竹でできた釘を打ったり、釘を打った板に寝かせたり、焼きごてで囚人の肌を焼いたりするなどといった拷問の方法は、およそ72あった。柳寛順(ユ・クァンスン)烈士ら、数多くの憂国の士が同刑務所の独立に向けた祭壇で犠牲になった。「断頭台の上にも春風が吹く。体はあっても国がないから、思いにふけざるを得ない」。1920年に斉藤総督に向かって爆弾を投げ、ここの死刑台で輝かしい生涯を閉じた姜宇奎(カン・ウギュ)義士の遺詩のように、命を奪われたものの、韓民族のリーダーらは独立精神を奪われることはなかった。45年8月、帝国主義・日本の敗亡とともに、この地に春が再びやってきたが、ここにはやてこなかった。

87年の閉鎖まで民主主義の回復を訴えた人々が、ここで「時代の良心」となった。多くの憂国の士の足跡が残るこの刑務所は、雑犯(政治犯以外の犯罪者)の教化施設ではなく、独立運動と民主化運動の聖地として韓国人の記憶の中に残っている。豊饒(ほうじょう)と自由を満喫する多元化した市民社会を実現した今日。西大門刑務所は韓国人の胸の奥深く刻みつけるべき警句に迫る。

メメント・モリ(Memennto Mori=死を忘れるな)!


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