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【その時の今日】明成皇后殺害は日帝の国家犯罪だった

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2009.10.07 15:59
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1895年10月7日未明、訓練隊解散令が下されると、翌日、駐韓公使の三浦梧楼(1847-1926)は10日に予定されていた日程を繰り上げた。

「ロシア勢力がずけずけと朝鮮半島に侵入する根源は、まさにこの宮廷の女性、閔妃(ミンビ)一人の一顰一笑のためだ。 恐ろしい東亜の禍根が迫っているのも知らずに閔妃は日本の勢力を押し退けようという一心で将来の災いを考えていない。 東亜を救って朝鮮を救うことができる目の前の唯一の方法は閔妃を殺害することにある。 閔妃を殺せ!閔妃を殺せ!これが当時の京城にいた志士らの絶叫だった」。

行動隊だった右翼浪人の主張のように、この惨劇は彼らの‘忠誠’が起こした偶発的事件なのか。

1894年9月15日、平壌城(ピョンヤンソン)戦闘で清国軍を退けた後、日本の為政者らは朝鮮を保護国にしようと野心を抱いた。 朝鮮をのみ込むためにはロシアと米国の同意を得る最上級の外交が必要であり、これを自任したのが明治維新の主役の一人、井上馨だった。内務大臣を退いて朝鮮公使になることをいとわなかった井上は、翌年4月23日、三国干渉で自分の野望が断たれると危機に陥った。

高宗(コジョン)と王后がロシアを背に日本を押し出そうとすると、窮地に追い込まれた井上は2つの方法を模索した。 一つは王后と手を組んでこの地をロシアと共同支配すること、もう一つはロシアを引き込もうとする王后を殺害した後、目標通り朝鮮を支配下に置くことだった。

井上は7月21日、本国政府を説得し、清国から受けた戦争賠償金から300万円を無償で与えると約束し、王室の歓心を得た。 しかしこれは詐欺だった。 その時すでに井上と総理大臣・伊藤博文は王后殺害を工作していた。 これを引き受ける下手人に選ばれたのが極右派の退役軍人である三浦であり、推薦人は井上だった。

三浦が赴任して3日目の9月4日、日本政府は寄贈金の話をなかったことにした。 約束を破り日本勢力の退潮が明らかになると、三浦は右翼浪人を動員し、10月8日、求心点である明成皇后を殺害した。

「私たちの勢力を維持して当初の目的(朝鮮保護国化)を達成するためにこうするしかなかった」。同月14日、伊藤博文総理大臣に送った三浦の報告書は、この‘天人共怒’する犯罪行為に国家レベルの介入があったことを物語っている。

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