今年で90周年を迎えた三一運動の起爆剤は高宗(コジョン)皇帝の葬礼だった。3月3日の高宗の因山(大葬)を控えて数十万の群衆が上京していた中、33人の代表たちが巨事の日付を選んだのだ。当時、朝鮮の民衆には高宗が毒殺されたといううわさが一斉に広がった。元気だった高宗がシッケ(コメで作った飲み物)を飲んで寝床についた後に急逝し、その晩、宿直をしていた人が親日派の李完用(イ・ワンヨン)と李址鎔(イ・ジヨン)だったというからそんなうわさも出回ったのだ。怒りを覚えた群衆は高宗の遺体が安置されていた徳寿宮の前で大声で泣きながら万歳を叫んだ。
高宗が眠る洪陵(ホンルン)に行くと「大韓高宗大皇帝洪陵」と刻んだ石碑が見られる。整然とした碑閣の中でりんと御陵を守っているこの石碑が建てられたのは、陵参奉(従九位の官職)高永根(コ・ヨングン)のおかげだ。高永根は元々長湍(チャンダン)郡守と慶尚(キョンサン)左道兵馬節制使を執り行った役人だった。1903年には明成(ミョンソン)皇后弑殺事件の幇助犯、禹範善(ウ・ボムソン)を日本の広島まで訪ね、首に短刀を刺して殺害した。彼は日本の警察に自首し「元首と同じ空に暮らすことができず、9年ぶりに民の痛切の恨を晴らした」と書いた文を提出した。