村上が絶えず走る理由は、このような文章に現われる。「若いころには美しくて力強い作品を書いた作家が、ある年齢に差し掛かると、急に疲弊するようになる。文学の早老、独特な疲労現象、文学の委縮、創作エネルギーの減退は体力が体の中の毒素と戦い、勝てなくなった結果ではないか」--。村上はこのような現象を回避するために走り続け、驚異的な体力を維持している。今、彼は1日にマラソンのほかに、水泳やサイクリングもこなす。
村上は「ウルトラマラソンでマラソンに関する形而上学の境地を体験した」と述べている。最後の段階では肉体的苦痛のほかに、自分が誰なのか、今何をしているのかさえも頭から消え去っていく。実に不思議な気分だ。この状態では、走る行為がほぼ形而上学的な領域に達している。行為が先にあって、行為に付属した存在として自分がいる」--。哲学者デカルトの「私は考える、ゆえに私はある」という言葉をもじって村上は「私は走る、ゆえに私はある」と話す。誇張しすぎていないか。いや、違う。執筆しない村上の存在は無意味で、走らずにひたすら執筆する村上は想像できない。