1948年6月、大韓民国はまだ米軍政体制だったが、オリンピック(五輪)には出場できた。 イ・サンベク朝鮮体育会理事長が国際オリンピック委員会(IOC)ブランデージ副委員長を説得し続けたおかげだ。 ブランデージ副委員長の要請を受けたマッカーサー連合軍最高司令官がハッジ韓国駐屯軍司令官に協調を要請し、実現することになった。
国内選抜大会を経て6種目に出場する67人の選手団を結成した。 国民の声援は大変なものだった。 五輪後援会は公債格の五輪選手後援券140万枚を発売し、参加経費を調達した。 制憲国会は選手に送る激励メッセージを採択した。
選手団は出征日の21日朝、ソウル鍾路(チョンロ)2街のYMCA会館に集まり、団体服に着替えてソウル駅まで街頭行進をした。 南大門路に並んだ市民は「勝って来てくれ」と熱い声援を送った。 選手たちは一様に感激とともに身が震えるのを感じたという。