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【噴水台】李承晩と金子堅太郎

2008.08.04 18:17
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30歳の李承晩(イ・スンマン)が船で太平洋を渡り、列車で米大陸を横切ってワシントンに到着したのは 1904年の年の瀬だった。任務は米国朝野に日帝の韓半島侵略の意図を説明し、支援を訴えることだった。閔泳煥(ミン・ヨンファン)ら大韓帝国重臣たちが李承晩を密使に選んだ理由は5年半の間、獄中で磨き上げた英語の実力によるためだった。李承晩は翌年8月、セオドア・ルーズベルト(1858~1919)大統領に会うことに成功する。しかしルーズベルトが弱小国の青年の哀訴を聞き入れるわけはずがなかった。それもそのはずなのが、李承晩に会う5日前、米国は日本と「桂-タフト密約」を結んで韓国に対する日本の宗主権を認めた状態だった。

 
日本の対米外交は周到綿密だった。李承晩より先にワシントンへ来ていた日本特使金子堅太郎はルーズベルトとハーバード大入学同期で、クリスマスカードと手紙をやりとりする仲だった。ルーズベルトは金子がプレゼントした『武士道』の英語版を読んで日本にすっかりはまり、日本人高段者から毎週3回柔道を学んだ。そのおかげで金子は敷居の高いホワイトハウスを随時、出入りすることができた。21世紀に脚光を浴びる「ソフトパワー」外交を、日本はすでに100年余り前に駆使していたわけだ。その結果、ルーズベルトは「韓国人のために日本に干渉することはできない。彼らは自分のために拳一度振りあげることはなかった」と言うに至った。

ルーズベルトの仲裁で1905年8月に締結された露日講和条約(ポーツマス条約)1条は「日本が韓国で政治、軍事、経済的な優越権があることを承認し、指導、監督に必要な措置を取ることができることを承認する」となっている。韓半島からロシアを追い出した日本は、3カ月後、韓国の外交権を奪う乙巳(ウルサ)条約を結ぶに至る。20世紀初め、韓国と日本が米国で繰り広げた外交戦はこのように、初めから勝敗が決まっていた。宣教師が書いてくれた紹介状何通かを頼りに米国に初めて訪れた李承晩は金子の足元にも及ばなかった。

米国地名委員会(BGN)が独島(トクト、日本名・竹島)領有権表記を「主権未指定」に変えてから1週間で撤回した。しかし、外交戦で大きな勝利でもおさめたかのように手前味噌でいることではない。言葉とおり原状回復であるだけで、それ以前と変わったものは何ひとつないからだ。中立を守るという米国の公式立場もそのままだ。日本も黙っていない勢いであり、すぐにも第2ラウンドのゴングが鳴るだろう。100年前金子を送った日本の緻密さは、少しもさびていなかった。今こそ一喜一憂する時ではない。

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