<ES細胞>「黄教授、宗教集団の教祖のようだった」(1)

<ES細胞>「黄教授、宗教集団の教祖のようだった」(1)

2008年04月13日13時21分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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  「ヒト胚(はい)性幹細胞(ES細胞)はない。あのとき、どんなことがあったかについて同僚の研究者らに説明しなければならなかった。本人を信頼していた同僚への思いやりがあったならば…」。

  一人は証人席に、もう一人は被告席に着席した。検察側の証人として出席した人は、ソウル大医大・安圭里(アン・ギュリ、腎臓内科)教授。やや震える声だったが、鋭く冷たい口調だった。被告席の黄禹錫(ファン・ウソク、獣医学)前ソウル大教授は目をつぶっていた。

  8日午後、ソウル中央地裁・第417号の大法廷。傍聴席がざわめいた。法廷警衛(法廷訴訟を円滑に進める裁判所職員)が傍聴席の黄氏支持者に向かって静かにするよう指示した。安圭里教授が証言宣誓を行なった。安教授は一時、黄禹錫研究チームのスポークスマンとされた人物。そうした安氏が2年5カ月ぶりに、黄氏と同じ場所にいるのだ。「黄禹錫ES細胞ねつ造事件」で波紋が広がった05年12月以来初めてだ。

  当時、安教授は「わたしもES細胞の存在を信じていたが、いまでは確信できない」という手紙をケーブルテレビ・平和(ピョンファ)放送あてに送り、黄前教授とは異なる立場であることを明らかにした。翌年3月にソウル大で停職2月の懲戒措置を受けた安氏は、罷免処分を受けた黄前教授とは違って大学に復帰している。検察側の尋問がはじまった。尋問は、安教授が検察で供述した内容を再度確認する方式で行なわれた。

  -05年、サイエンス誌に発表された論文に関連し、ES細胞の免疫拒絶反応検査の依頼を受けたことに間違いないか。しかし、それが、ES細胞ではなく同じ体細胞を対象にした検査だったとすれば、当然一致する結果が得られ、それは何の意味もないことだ、ということに違いないか。

  「はい」。

  -きちんと検査の結果が出る前に論文が提出されたことに違いないか。論文に署名もしていないのに、共同著者に記載されたのか。

  「はい」。

  安教授は、05年5月に論文が発表され、世界初めてのES細胞ハブ(クローニングによるES細胞の製造を進めるプロジェクト)が進めらて以降、黄前教授に激しい感情の起伏があった、と証言している。

  「黄教授は他人の話を聞こうとせず、自分の日程にだけ合わせるよう強く求めることが多かった。他の教授に『黄教授を見ていると、弓裔(クンイェ、後高句麗を建国した人)の最後の姿を見ているような気がする』と話したぐらいだ。黄教授の研究との間に距離を置きたくなり、米国での短期研修を計画したが、ソウル大病院がハブを誘致し、行けなくなった」。

  同年10月、世界初めてのES細胞ハブが発足した。ほぼ同時に「黄禹錫神話」の崩壊音も響きはじめた。研究パートナーだった米ピッツバーグ大のジェラルド・シャッテン教授が11月12日、卵子取得の過程を問題視し決別を宣言したのだ。22日、民放・MBCテレビ(文化放送)の報道番組『PD手帳』も「卵子取引疑惑」について報じた。黄前教授は謝罪の会見と共にハブ所長を辞任した。海外出張中だった安教授は帰国した翌日の11月30日、潜伏中の黄前教授と秘密裏に会わなければならなかった。

  「ソウル大病院に来ていた李柄千(イ・ビョンチョン、元ソウル獣医大教授)氏の車に乗り、約束の場所へ向かった。同午後8時ごろ、京畿道陽智(キョンギド・ヤンジ)の駐車場に止められていた車の中で黄教授に会った。黄教授は帽子をかぶっていて、ひげも剃っていないなどとても疲れた様子だった。その時、MBCから『米国にいるキム・ソンジョン研究員とのインタビューを収めたPD手帳・第2編が12月6日に放送される』という電話がかかってきた。黄教授が『大変なことになった。研究チームとハブに致命的なことになる。わたしは米国に行けない状況だから、安教授が行ってくるように』と要請した。その場で、ニュース専門のケーブルテレビ・YTNに電話をかけ、同行取材の計画を立てた」。

  →(2)へ続く
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