<朝鮮通信使400年>将軍にだけ許された道、通信使一行を通す

<朝鮮通信使400年>将軍にだけ許された道、通信使一行を通す

2007年05月28日12時42分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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  朝鮮通信使一行は1607年5月17日、京都を発って江戸に向かった。当時も幕府は通信使らの旅程に支障をきたしてはいけないと格別の神経を使った。幕府の将軍だけが通った表通りを通信使一行に勧めたのが代表的な例だ。

  将軍はこのように通信使を通して自分の地位を精一杯高めるのに活用した。血で血を洗う戦国時代を終えた徳川家康は大名と呼ばれる地方領主たちを牽制する過程で、一時戦争を経験した朝鮮との平和が切実な望みだった。当時、儒学や医学など学問の先進国だった朝鮮の外交使節を定期的に招待して自分の政治的地位を高める必要もあった。通信使の招請にかかる莫大な費用の相当部分を大名に押し付けたのも統治の術の1つだった。通信使一行はこうした歓待の中、日本の代表的な名勝地琵琶湖に感嘆しながら、豊かな野を通って江戸へ向かった。

  

近江八幡市の朝鮮人街道の碑。将軍だけが通ったとされる道を通って江戸へ向かった。



  ◆道路に残した通信使の地位=京都を発った一行は中山道と呼ばれる通りを北上し、野洲という所で中山道と分かれて彦根まで「朝鮮人街道」という特別な道を利用した。1607年通信使の副使慶暹(キョンソム)は「道路が広くてよく整備された上に左右に松が植えられて千里の道が松の青さに溶けた」と称えた。

  元々名前が京街道だったこの道は、江戸幕府に大きな意味がある。徳川家康は1600年9月、関ヶ原で豊臣秀吉に付いた一軍の武将たちと争って勝ち、戦国時代を終えて江戸時代を開いた。朝鮮人街道は徳川家康が争って勝った何年か後、京都の天皇に会いに行く際に利用した道だ。勝利の道で、開国の道だったわけだ。江戸幕府はそれまで将軍のほかには誰も使うことができないようにした。しかし、通信使にだけは例外で通したのだ。

  朝鮮人街道の跡は近江八幡市立資料館の前に残っている。河内美代子資料館長は「朝鮮人街道は野洲から彦根鳥居本まで41キロに達する」とし「1607年初めの通信使では他の道はまだ整備されておらず、幕府の威信も考慮して良い道を紹介したが、その後もこれが慣例となった」と説明した。

  ◆通信使と将軍のみが利用した船の橋=朝鮮人街道は名勝地である琵琶湖を通った。琵琶湖は、わびしく危ない道を通ってきた通信使一行が、富士山とともに素晴らしいとした名勝地だ。1624年、通信使の副使カン・ホンジュンは「景色の美しさと雄大壮厳さは中国の洞庭湖もかなわない」と評した。1719年、通信使では申維翰(シン・ユハン)も「はるかな山は雲を抱え、遠くて近い漁船は黄金色のアシと古い大林の間を行き交い…」と秀逸な景観を歌った。

  通信使一行は摺針という峠道から琵琶湖を後にして関ヶ原を経て今の名古屋まで広い平野を横切って行った。この野原を通る時にも幕府は通信使のために船の橋を作った。平野には多様な河川があったが橋はなかった。当時、日本の築城・土木技術で橋を掛けることは難しくなかったが、江戸幕府がこれを阻んだ。徳川幕府がいつまた地方の大名たちが反乱を起こすか不安だったからだ。したがって河川を渡るときは大名といっても小さな渡し船に乗り換えなければならなかった。

  将軍自身はあらかじめ数十~数百隻の船を横につないで固定し、その上に板を覆った船橋を作って渡った。通信使一行にも同じ船橋が提供された。船橋は作るのに長ければ半年もかかったが、通信使が通ってからはすぐに崩した。

  船橋は臨時施設だっただけに今、当時の姿は残っていない。ただ一宮市尾西には過去の船橋があった所という記念碑と船橋の模型と絵が残っている。尾西歴史民族資料館の小塚ひろみ研究員は「資料によると江戸時代を含め、この地域に船橋を作って渡ったのは将軍と通信使だけだった」と話す。通信使が江戸幕府にどれほど重要な儀式だったのか示すものだ。

  

尾西歴史民族資料館に再現された船橋の模型



  「先進文化伝えた異色の通信使行列の再現」大垣市立郷土館

  岐阜県大垣市は通信使が名古屋に行く途中で1泊した都市だ。当時賑やかな交通の要衝だったここには朝鮮山車という山車と飾りなどおもしろい遺物が残っている。

  山車は日本各地で開かれる祭りで使うもので、地方ごとに特色ある飾りをする。この村には通信使の行列を再現、朝鮮時代高官の衣服そのままの人物像や旗などで装飾した山車が伝わる。

  1964年、この遺物が初めて発見されたときは小さな騒動があった。竹嶋という村の古い倉庫で発見されたが、村の人々は初めはこれを隠そうと思ったという。当時、通信使を朝鮮の朝貢使節として見下す明治天皇時代以降の偏見が強く残っていた。したがって派手な飾りや遺物が朝鮮から渡って来たものだとして公開することを憚ったというのだ。

  以後、通信使に対する研究が進捗し、テレビなどでも紹介された。今は大垣市立郷土館の重要な展示品目となり、関連展示会も開かれている。大橋和義郷土館長は「当時大垣の人々が通信使の行列を観察し、高い絹で衣服を再現して人形を作るなど真心を込めて迎えた」とし「先進文化を伝え、風変わりな通信使の行列を記念したもの」と説明した。

  通信使が行き交った道からやや離れている滋賀県高月には雨森という村がある。18世紀初め、韓日外交関係で重要な役割を担い、1711、1719年の通信使で日本側案内役を務めた雨森芳洲の故郷だ。ここには書院または東アジア交流ハウスと呼ばれる記念館が残っている。

  平井茂彦館長は「雨森は相手(朝鮮)に対する強く尊重し、通信使一行には自分の祖国である日本の文化を伝え尊重することを要求するなど外交官の姿勢を忘れなかった」と話す。この記念館のように日本では通信使とかかわる跡に再びスポットを当て、発見された遺物を保存する努力が活発だ。

  

仲尾宏教授



  「両国友好関係築いた親善使節」
日本、侵略正当化のために隠ぺい
通信使研究の大家、仲尾宏教授


  仲尾宏京都造形大学名誉教授は日本でも屈指の朝鮮通信使専門家だ。史学ではなく古美術専攻者である仲尾教授が通信使研究の大家として認められるのはこれまでの業績による。1996年、在日史学者故辛基秀(シン・ギス)先生とともに通信使関連の遺物、遺跡、各種書画など資料を集めて計8冊の「善隣と友好の記録--大系朝鮮通信使」を発刊した。今も通信使研究になくてはならない貴重な資料だ。2001年にはNHKの教育放送で、9回にわたり放送された「朝鮮通信使」の番組の内容を監修し、直接進行、その内容を本にして出版した。これは日本に通信使の歴史的意味を広く伝えるきっかけとなった。

  通信使と係わった日本学者と専門家たちのネットワークとして1994年に結成された「朝鮮通信使縁地連絡協議会」の核心メンバーとして会を率いてきたのも仲尾教授だ。この会は今も日本で通信使関連行事と研究において重要な役割をしている。

  京都で会った教授は「通信使は一言で両国を対等な関係としてきた友好親善の使節だった」と話した。しかしこんな明白な事実が両国で認められるまでは長年の歳月がかかったと付け加えた。20余年前、日本で通信使を研究する学者は少数だった上、特に注目もされなかったというのだ。

  このようになった理由は逆説的に通信使がどちらか一方からの一方的なものではなく「対等な友好親善の使節」であったからだという。明治天皇以後、日本の政権は前任者である徳川政権の実績を低く評価したが、そうしなければ当時弱小国である韓国と中国に進出する正当性を確保することができなかったからだという説明だ。自分たちの欧米レベルの侵略戦争と、これを遂行した豊臣秀吉を浮上させるためには両国が親しくしたことを証明する通信使の歴史は目の上のこぶだったという説明だ。

  仲尾教授は「在日史学者たちの長年の実証研究の末、通信使に対する日本国内の認識は過去よりずっとよくなった」とし「80年代、教科書に通信使に対する説明がほとんどなかったが、今はすべて扱っている」と話す。「今後、両国専門家たちが共同研究やセミナーなどを通じて通信使の業績をたくさん復元できたらいいと思っている」と語った。

   

  

  ◆協力=ソン・スンチョル江原大史学科教授、仲尾宏京都造形大学名誉教授
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