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<宋虎根コラム>「ヨーコの話」と民族主義

2007.02.13 16:56
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韓国の民族主義は相変わらず引火性が強い。 小さな火の粉でもすぐに発火するような活火山だ。 日本が独島(ドクト、日本名・竹島)問題で、中国が東北工程で歴史的境界線を無断侵入したせいでもあるが、相手を静かに説得して収拾できるほど大きな国家力量や精神的資産を持てていないのも事実だ。

叫びによって目覚めた韓国の民族主義は抵抗性が強い。 この「抵抗性」は経済成長に突破口を見いだしたが、まだ歴史的な怨恨をなだめることができず頻繁に胸を痛める。 「ヨーコの話(竹の森遠く)」をめぐる最近の事態がそうだ。 加害者と被害者が入れ替わったこの小説の歴史的偏向性に抗議しながら在米同胞2世が登校を拒否し、これを契機に米国東部地域の韓国人らが「歴史を正しく知らせる」運動を繰り広げようとしている。 感傷的なストーリーの中に日本の野蛮的侵奪行為が隠ぺいされる危険があり、歴史的実像が外国人に誤って伝わる素地が多いということだ。 読んでみると、確かにそういう危険は十分ありそうだ。

 
「竹の森遠く」が原題のこの本は小説形式を借りた手記だ。 南満洲の官僚だった父と軍に入隊した兄を残し、3人の母娘は日本の敗戦消息を伝えてきた知人の勧告で夜中に逃走する。 羅南(ナナム)からソウル駅に、釜山港から福岡に、さらに京都駅へとつながる旅は、12歳の少女ヨーコにとって地獄だった。 敗亡した帝国日本も、廃虚になった日本社会も面倒をみてくれない彼女たちは結局は難民だった。

韓国人の傷口に触れたのは朝鮮人が避難行列の日本女性を劫奪する場面だ。 この一節で韓国人読者なら羞恥心と憤怒と敵がい心が同時に爆発する。 「お前たちはどうだったのか」と問い返す。 北朝鮮の民兵隊(作品では人民軍と誤って表現)は日本人避難行列に無差別銃撃を加え、遺体を略奪する。 あたかも日本軍がわれわれに対してそうであったようにだ。 かといって小説中の場面の歴史的根拠を作家に要求するのは無理がある。 結局はノンフィクション的フィックションであり、真偽は歴史家の持ち分である。 侵略戦争が招いた惨状の一部と考えればそこまでだが、依然として作家の記憶に対する疑問は消えない。

少し落ち着いて考えよう。 その場面について民族主義的憤怒を表す前に、作家の執筆意図を幅広く解釈することが必要だ。 朝鮮人はもちろん、日本の庶民も戦争の犠牲者という認識と、すべての人を獣にした戦争は絶対になくなるべきだという反戦メッセージがそれである。 ‘悪漢’日本人と‘善なる’朝鮮人が頻繁に登場することからみて、作家も韓国の民族感情に配慮したようだ。 幼年時代を悪夢にし家族を奪っていったのは、他でもなく故国の日本という批判的認識がストーリーの背景にある。

文学性がやや落ちるこの作品が1980年代の米国で好評を受けたのもその反戦メッセージのためであり、真珠湾を襲撃した日本政府の挑発行為を非難するセリフが米国読者の感動を呼んだのだ。 さらに日本礼讃論が起きた80年代の米国の文化界を考えてみると、公立図書館の「推薦図書」に、さらに教師委員会が選ぶ「良い本」になった理由は十分に推測できる。

いずれにしても、遠い外国で行われる「歴史を正しく知らせる」運動は、歴史的な傷を抱えて暮らすわれわれにとって新鮮な激励には違いない。 その馴染まない異国生活でも真実を明らかにし、民族の自尊心を持つのはどれほど涙ぐましいことか。

しかしその場面の真偽だけにこだわれば「抵抗的民族主義」の無様な水準から抜け出せないという点に注意しなければならない。 傷だらけのヨーコの少女時代を抱き寄せて、作家ヨーコ・ワトキンズのメッセージを受け入れることは、被害者だけができる成熟したものだ。 彼女は実際に帝国日本の被害者であり、戦争の犠牲者という点で朝鮮人と違わない。

「ヨーコの話」は日本の「ナショナルヒストリー」が狙う自国中心的イデオロギーを否定する力を持っている。 戦後ドイツとは違い、植民地支配を痛烈に反省しないまま再び国家・民族談論を強化する日本の用意周到な歴史転倒企画に対して、むしろ「ヨーコの話」は語る点が多いストーリーだ。 作家の痛みまで抱きかかえる態度こそ、私たちの歴史的怨恨をなだめるのに必要な心がけである。

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