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「明成皇后は二重美人だった」

2006.07.19 15:45
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明成皇后(1851~1895)の顔が描かれた朝鮮(チョソン、1392~1910)末期の皇室家族の肖像画が発見された。

月刊中央は、18日に発売した8月号で、明成皇后(王妃閔氏と記載)、朝鮮26代王の高宗(コジョン)、大院君(テウォングン)が描かれた「朝鮮国貴顕肖像」というタイトルの肖像画の画集をカナダ・トロントで発掘した、と公開した。大きさは横55センチ、縦40.4センチ。保存の状態が良好なほうであることが肉眼で確認できる。絵の下の部分には、漢字で発行・印刷した時期・住所・作家・出版社などが記されてある。

 
明治27年(1894)日本で制作されたこの肖像画は今年6月上旬、トロント在住の中国人が所蔵していたものを、江原(カンウォン)道民日報のソン・クァンホ北米特派員が見つけたもの。発見した当時、競売市場に出る直前だったもようだ。所蔵者の中国人は、この絵の出所について約6年前に米ボストンの競売会社スキナーで購入した、と説明している。肖像画に描かれた明成皇后ははっきりとした二重など美しい顔だち。

肖像画の右下には「板権所有・明治二七年九月十日、印刷・同年同月十日に発行」と記されてある。印刷・発行日が9月10日で同じだ。記された発行日通りならば明成皇后が死去する13カ月前だ。明成皇后が日本人によって殺害された「乙未事変」は、1895年10月8日のことだった。下の中間あたりには「印刷画作兼発行者・東京京橋区北?拾弐番地・タチカワヨシ(キチ)チロウ」となっている。

絵の左下には、印刷所が「東京麹町区有楽町三町目信陽堂」と記されてある。明成皇后研究の権威者、ソウル大・李泰鎭(イ・テジン、64、国史学)教授は「この肖像画はこれまで発見さた写真や絵のうち年代が最も早く、日本から出てきた資料との点から大きな価値がある」と述べた。

また「作家の名前まで分かった場合は初めて。日本の出版社が3人の人物を1枚の絵に盛り込み帯の装飾などをして普及版を作っていたのも初めて確認されたもの」と指摘。李教授は、続いて「1894年当時は日本のイラストレーターが朝鮮の宮廷を往来していた時期」とし「王妃の髪にのみカンザシをさすことができたことから、明成皇后であることを示すもう一つの資料、と考えられる」と評価した。

しかし、正反対の見方もある。翰林(ハンリム檁大学・韓永愚(ハン・ヨンウ、68、国史学)教授は「朝鮮時代の衣装研究専門家として、肖像画の服とカツラは王妃の服装ではなく、明成皇后の印象も当時43歳の顔にしては若すぎる」とし「明成皇后ではない」と断定。また「肖像画は王と大臣だけを描き、決して半身の肖像は描かない」という朝鮮時代の慣行を強調した。

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