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【中央時評】「日本人と犬」立入禁止?

2005.05.01 18:55
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一昨日のことだ。『向かいあって闘う女』の著者クォン・ミョンア氏が、独島(ドクト、日本名・竹島)の話のついでに、自分で撮った写真1枚を見せてくれた。

新村(シンチョン)のある酒場前に掲げられた「日本人と犬、立入禁止」という警告板の写真だ。日本人の友だちと一緒に飲むため、適当な店を探す途中、警告板を見てしまったということだから、2人が同時に感じたはずの当惑さを分かるような気がする。

 
しかし、その酒場だけではないらしい。多くの日本人観光客が訪ねる弘益(ホンイック)大入り口のブティック街には、親切にも日本語で「日本人と犬、立入禁止」との案内文が貼ってある、というのが同氏の伝言だ。実は「立入禁止」の文法は、それほど新しいものではない。

上海租界外国公園の入口に掲げられた「中国人と犬、立入禁止」、1968年までロンドン大前のパブに堂々と掲げられていた「アイルランド人と犬、立入禁止」、米南部の商店前に掲げられていた「黒人とペット、立入禁止」などの警告板は、それが「帝国」の文法であることを示している。

商人が「立入禁止」との警告板を設ける際、それが帝国の文法だとの点に気付いていたかどうかは分からない。旧帝国を見つめる、それら旧植民地の人々の視線に、帝国への欲望が盛られていたのか、または、帝国への痛快な報復の心理が働いていたのかも、確認できる方法がない。

恐らく民族主義を売りものにし売上げを伸ばしたい、という商魂がさらに大きく働いたのではないか、と思われる。考えてみれば、韓国メディアの報じ方も似たようなものだ。

鬱陵島(ウルルンド)から独島へ向かって出発するハンギョレ号の乗船口に「日本人立入禁止」という大きな看板が設けてある写真を撮って電送した有力通信や、その写真を受け取って堂々と掲載した主要日刊紙の見方が、それら商人よりマシなものとも言えない。

非常に単純な質問一つだけでも、それらの商業的民族主義は、すぐにその薄っぺらな底をあらわしてしまう。日本の独島領有権主張に懐疑的な見方を示し、「新しい歴史教科書」の日本民族主義を批判し、日本の右傾化に反対する日本人も、立入禁止の対象だろうか?4年前に「新しい歴史教科書」の採択率を0.039%にすぎない、微々たるものにひきおろした日本の良心的な市民も、立入禁止の対象なのか?

私がこの警告板に戦りつする理由は、さらに根本的なところにある。単一の「日本国民」を作る、という「新しい歴史教科書」の目標から分かるように、日本の民族主義者は、すべての日本人を統一された意志を持った、一つの日本人にすることに全力をあげている。

ところが、この警告板は、日本と日本人の複数性を否定し、すべての日本人を一つにくくり、単一の日本国民を目指す日本右派の目標に、反射的に寄与しているのだ。韓国の反日民族主義が、右傾化を主導する日本の民族主義と敵対的な共犯関係になるのは、こうした脈絡からだ。

要するに、韓国の民族主義と日本の民族主義は、すべての韓国人と日本人を、単一の意志をもった集合体に想定するとの点から、民族を「単位」で私有するコードを共有しているのだ。それが危険なのは、誰かを評価する際、その人が行なった行為の意図や結果を問題視するのではなく、その人がどの民族に属しているのかを、評価の基準にするからだ。

単に日本人だとの理由だけで、特定の店で酒を飲めなかったり、服を買えなかったりする、といったレベルにとどまるならば、ささいなこと、と受けとめられるかもしれない。問題は、対立が激化するとき、そのささいさが、ジグムント・バウマンが「範ちゅう的殺害」と定義付けたジェノサイド(集団殺害、genocide)につながるとの点だ。

すべてのユダヤ人の胸にダヴィデの星をつけさせたとき、ホロコーストはすでに始まったのだ。被害者になんの過ちもないのに、単にある民族に属しているとの理由だけで殺され、また加害者は、そうした理由から、集団虐殺を正当化するならば、あまりにも恐ろしいことではないだろうか。

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