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【噴水台】略奪文化財

2004.11.11 19:19
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伊藤博文が統監としてこの国に君臨した大韓帝国末のこと。 皇帝の座から降ろされた高宗(コジョン)が、昌徳宮(チャンドクグン)の博物館を訪れた。 そして高麗(コリョ)青磁を見て「これはどこで作られたのか」と尋ねた。 伊藤統監は「この国の高麗時代のものです」と答えた。 すると高宗は「こんなのはこの国にはない」と話した。 伊藤は何も語ることはできなかった。

朝鮮(チョソン)の皇帝が高麗青磁を知らないのは当然だった。 青磁は、500年前、高麗の貴族文化とともに墓の中に消えてしまったためだ。 儒教的観念から、他人の墓を暴く行為、すなわち「掘塚」は、天人共怒せる反人倫的犯罪だった。 そのため、青磁は完壁に所蔵されたままになっていた。 地下の所蔵庫が暴かれ始めたのは、日本が日露戦争で勝利した1905年以降のことだ。 掘り屋(盗掘専門家)が、高麗の首都だった開城(ケソン)と、蒙古侵入時に臨時首都になった江華島(カンファド)に押し寄せた。

 
それらの買い入れ主は、当時韓半島に進出していた日帝の高官・大爵らだった。 中でも、最も主な買い主は、伊藤統監だった。 権力の下支えを受けながら、ゴールドラッシュを求めて数百人の掘り屋が仁川(インチョン)に上陸した。 伊藤の在任した2年間に、高麗貴族の墓のほとんどが暴かれた。 墓から盗んだ青磁数千点を、日本の有力者にプレゼントしようと盗み出した伊藤統監が、高宗の前で口を閉ざしたのは当然だった。

韓日国交正常化の翌年である1966年、陶磁器・古文書など約1000点が返還された。 これは、略奪された文化財のきわめて一部だ。 個人所蔵品は返還対象にならなかった。 今でも良い品物はほとんど日本に残っている。 特に陶磁器の場合、大阪市立博物館に行って見てこそその神髄を感じることができるほどだ。

文化財の略奪と搬出は、帝国主義の歴史と同じ道を歩んできた。 西洋では、大英博物館のエルギンマーブル(Elgin Marbles)が代表的だ。 2500年前のギリシャ文明の精粋であるパルテノン神殿の主要な彫刻像を、英国人エルギン卿が1810年にすべて持ち帰った。 ギリシャが1941年から返還を要請しているが、英国人には特にその考えはない。

わが国の巫女が、日本の鶴林寺に保管されていた高麗仏画(阿弥陀三尊像)を盗んできた。 鶴林寺の住職と親切な在日同胞が、担当検事に会って返還を訴えるべくソウルにやってきた。 果たして何が真の返還なのか。

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