【噴水台】礼訟論争

【噴水台】礼訟論争

2004年08月02日21時51分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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  1674年2月、朝鮮(チョソン)第18代目の顕宗(ヒョンジョン)の母、仁宣王后(インソンワンフ)が亡くなると、政局が大きく揺らいだ。 王后の姑に当たる慈懿大妃(チャウィデビ、仁祖の第2夫人)が、息子の嫁の喪に際し、何カ月服すべきかが問題となったのだ。 今では服喪期間が政治の懸案になるなど笑い話にしかならないが、当時「礼」は今の憲法のように重要なものだった。

  礼曹は最初「1年」と定めたが、丞相の反対にあって「9カ月」に減らした。 顕宗は不満だった。 「なぜこのように物事がすぐコロコロ変わるのか」。王の問題意識は政局に大きな波紋を投げかけた。 歴史上これを「第2次礼訟論争」という。 最終的に顕宗は「1年」と確定したが、その後も論争の火種はくすぶり続けた。 この論争は、15年前に「第1次礼訟論争」が起きた第17代孝宗(ヒョジョン)の死に端を発する。

  当時も孝宗の継母にあたる慈懿大妃の喪服期間が問題になった。 孝宗は王ではあるが長子でなく、昭顕世子(ソヒョンセジャ)の弟という点が問題だった。 「王」を強調すれば「3年」、「弟」を強調すれば「1年」喪に服さねばならなかった。 当時、性理学の権威者であった西人の吏曹判書、宋時烈(ソン・シヨル)は「1年」と建議した。 しかし南人は「3年」を要求した。

  結局この時即位した顕宗は1年の喪に服すのだが、その過程で宋時烈の「体而不正」という発言が論争の火種となった。 「孝宗は『体』は父から継いでいるが、適正者『正』ではない」と述べたことについて、南人は「孝宗を王として認めない逆賊の発言だ」と糾弾した。 南人の尹善道(ユン・ソンド)は、この問題を上訴した。 これを「西人打倒」の策略とみた西人は、尹善道を殺そうと企んだ。 西人と南人の対立は、顕宗が執権派の西人に肩入れすることで、南人は敗れ尹善道は流罪を受けた。

  すなわち第2次礼訟論争の背景には、南人のギラギラした復讐心があったのだ。 南人は決死の覚悟で過去の問題を再糾弾した。 顕宗も「当時の決定は誤りだった」と糾弾に屈してしまう。 結果、西人はことごとく流罪となり、南人が政権を掌握した。 しかし政争は止まることを知らず、次の粛宗(シュクチョン)代の政治において、血で血を洗う報復戦が繰り広げられた。

  若手歴史学者のリ・ドクイル氏は「朝鮮時代の政治家が互いに殺りくを繰り返す引き金になったのが礼訟論争だ」とし「数十年前のことを蒸し返して思想論争へと持っていく、的外れな政治行動だった」と慨嘆する。 この思想論争を最近の政治用語になぞらえれば「過去の歴史論争」となろう。

  もちろん、現在の政治における過去の歴史論争の趣旨と様相は、朝鮮時代とは異なる。 しかし過去の歴史をめぐって政党が繰り広げる激しい対立の様子に、礼訟論争当時の殺伐さが見え隠れするのだ。 しかもそのような論争が、財政難に苦しむ民衆の主張から完全に乖離(かいり)しているという点は、今も昔も同じだといえるのだ。
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