盧武鉉って誰?

盧武鉉って誰?

2002年12月20日14時45分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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  ◇肉体労働から人権弁護士に=盧武鉉(ノ・ムヒョン)は1946年9月1日、カラスも食べるものがないという慶尚南道金海郡(キョンサンナムド・キムヘグン)で、果樹園を営む盧判石(ノ・パンソック)氏と李順礼(イ・スンレ)氏の間に3男2女の末っ子として生まれた。

  盧武鉉が通ったテチャン小学校の学籍簿には「小農で生活は下流」と生活水準が記されている。

  幼い盧は賢明で、根気と自尊心が強かったという。盧は6歳で「千字文」をすべて暗記して「天才」と呼ばれ、小学6年の時は生徒会長を務めた。中学1年の時、担任の先生はすでに盧の適性を「政治家」と見抜いていたという。中学時代の成績は全校トップを争うほどだった。

  しかし学費を払えず中学校を1年間休学、商業高校への進学(釜山商高)、高校時代の夜間警備、学校の教室を借りての生活、農協入社試験の不合格など、貧困による苦痛を味わった。

  盧は20歳で初めて人生に勝負をかけた。故郷で国家試験の勉強を始めたのだ。1975年、29歳の年齢でついに第17回司法試験に合格した。しかし試験に合格した後、盧に他の道が開けた。

  大田(テジョン)地裁で7カ月間判事生活を送った後、弁護士事務室を開業した盧は、主に登記業務・租税・会計事件などを扱いながら生計を立てた。しかしよく働いてよく遊ぶ「盧弁(ノビョン、盧弁護士)」はある日、「路弁(アスファルト弁護士)」に変貌する。

  学生運動に接してから社会に対する認識を改めたのだった。その後、盧は生業をそっちのけにしたという。「闘争」を通じて盧の名前は広く知られ、金泳三(キム・ヨンサム)総裁の統一民主党から政界入門の提議を受けた。

  ◇敗…敗…敗…敗=88年、盧武鉉は第13代総選挙で民正党の実力者、許三守(ホ・サムス)候補と対決する。ほかの政治家は許三守を避けたが、盧は正面から立ち向かって勝利した。

  同じ年に開かれた第5共和国(81~88年)後の聴聞会では、論理的かつ鋭い追及で李仁済(イ・インジェ)らとともに聴聞会スターとして浮上した。しかし90年1月、民正党総裁の盧泰愚(ノ・テウ)大統領と金泳三、共和党の金鍾泌(キム・ジョンピル)総裁が3党合党し、盧は40代後半を政権の周辺部で過ごした。

  5年後には釜山(プサン)市長選(95年)に統合民主党候補として出馬するが落選。

  翌年の第15代総選挙(96年)直前、金大中(キム・デジュン)が国民会議を創党すると、盧は「新党設立はごまかしの政治」と批判し、民主党に残った。盧は「3金(金大中、金鍾泌、金泳三)清算」を主張しながらソウル鍾路(チョンロ)に挑戦状を出したが、両金を敵に回した結果は新韓国党候補、国民会議候補に続く3順位として表れた。聴聞会スターの盧も徐々に大衆の記憶から遠ざかっていった。

  しかしこれまでの盧の「抵抗の政治」は人々に確実に刻まれていた。

  政治家初のオンラインファンクラブ「ノサモ(盧武鉉を愛する会)」が結成されたのもこの時期だ。

  ◇李仁済・鄭夢準・李会昌を越える=金大中は8月、落選した盧武鉉を海洋水産部長官に任命した。これといった経歴がなかった盧にとって大統領選は重要な機会であり、彼は臥薪嘗胆で大統領選の夢を育んだ。

  3月から2カ月間にわたった新千年民主党(民主党)の国民参加党内選挙で、盧は李仁済と激戦を繰り広げた。盧の支持率は、既存政界に対する変化の欲求、ノブレス・オブリジェ(高い身分に伴う責任)に対する失望感とかみ合って上昇した。

  大統領選で500万票を獲得した後、5年間準備してきた李仁済を抑え、彼の支持率は60%にまで達した。

  しかし金大中の息子を含む不正ゲートが政局を強打し、盧を看板にした6.13地方選と8.8補欠選は民主党の惨敗に終わった。その頃ワールドカップ(W杯)ブームで鄭夢準が大統領選挙街道にすい星のように現れた。盧は、民主党内の「反盧」勢力の組織的かつ終わりのない候補交代圧力に揺れた。

  盧は結局、相当数が反対するなか「テレビ討論と国民を含めた党内選挙で候補を一本化しよう」と提案した。こうした史上初の世論調査で盧は勝利した。

  余勢で盧はついに、この5年間政局を支配した李会昌(イ・フェチャン)大勢論まで破った。

  盧は何も持たずに大統領選に出た人だ。

  しかし最終的に盧は「力」で大統領選の夢をかなえた。挑戦者の盧は「成功した大統領」に向けて新たな挑戦の準備に入った。
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